桶狭間合戦、関ヶ原合戦、大坂の陣など、戦国時代の合戦や主要事件を網羅した、著者の集大成的短編集『家康謀殺』(著・伊東潤)より、「上意に候」を特別公開!(第1回から読む)

前回までのあらすじ:秀吉の甥・秀次は、拾丸(秀吉の実子。後の秀頼)の誕生で、秀吉に立場を疎まれるようになった。家康の使者により側近の裏切りをも知り、秀次は呆然とする。
「おのれ──」
「お待ちあれ。われらは関白殿下の身を案じて、こうした助言をしておるのですぞ。それよりも獅子身中の虫の方が、悪辣ではありませぬか」
「常陸介のことか」
秀次が座を立とうとした。
「いずこに行かれる」
「常陸介を呼び、真偽を質す」
「ははは、もう、こちらにはおりますまい」
「なぜ、それが分かる」
「盗人というのは、事が済めば、すみやかにその場から立ち去るもの。すでに常陸介に、こちらでなすべきことはないはず」
そう言えば、ここ三日ほど重茲の姿を見かけていない。秀次は療養に努め、政治向きの話を誰ともしていなかったので、重茲の所在を確かめることもなかった。
──迂闊であった。
口惜しさに唇を嚙みつつ座に戻った秀次に忠次が言う。
「まずは朝廷ですな」
「例の件か」
「はい。常陸介の専横によって後陽成帝の容体が悪化し、朝廷は立腹しております。太閤殿下と関白殿下に行き違いがあった際、間に立てるのは朝廷のほかありません」
──その通りだ。
関白という公の地位にある秀次の場合、秀吉との間に疎隔が生じた際、朝廷に取り成してもらうのが筋でもある。
「では、どうする」
「聚楽第には、いかほどの財貨がおありか」
「白銀が五千枚ほどあると聞いたが──」
「それをすべて朝廷に献上なされよ」
「すべてか」
「関白殿下のお命が懸かっております」
忠次の口調が強まる。
「分かった」
「続いて、明日にも大坂城に向かわれよ」
「明日だと」
「はい。行くのなら一刻も早い方がよろしい」
いつの間にか、忠次は腹心のような物言いをしていた。
「行かぬとどうなる」
「まず間違いなく、太閤殿下との間に弓矢の沙汰となりましょう」
秀次が生唾をのみ込む。
「大坂城に入り、太閤殿下の前で謝罪し、すべての地位から身を引き、出家遁世すると言上なされよ」
「すべてか」
「はい。所領も返上なさると仰せになった方がよろしいでしょう」
「そうすれば、すべてを水に流してくれるのか」
「その後、どう判断するかは、すべて太閤殿下次第。後は運を天に任せるしかありません」
──そこまで追い詰められていたのか。
秀次は愕然として言葉もない。
「それがしが申し上げたいことはそれだけ。では、これにて──」
そう言うと、忠次は形ばかりに平伏し、下がろうとした。
「待て。そなたはどこへ行く」
幼少の頃から秀次の周りには、常に年寄や腹心がいた。彼らから助言をもらい、秀次は判断を下してきた。
「関白殿下──」
忠次が「やれやれ」という顔をする。
「それがしは徳川家の者。それをお忘れか。それがしがここにいるだけで、火の粉は徳川家にも降りかかります。聚楽第にそれがしを派遣しただけでも、わが主に感謝いただかねばなりません」
「いや、しかし──」
「それがしは、『もう手遅れなので、捨て置くべし』、と主に申し上げました。しかし慈悲深い主は、『それでは、関白殿下があまりに哀れ』と仰せになり、病気平癒の祝いにかこつけて、それがしを派したのです」
秀次は愕然として言葉もない。
「それゆえ──」
忠次が立ち上がる。
「われらの関与は、ここまでとさせていただきます。後は朝廷を恃まれよ」
そこまで言うと、忠次は去っていった。
その後ろ姿を茫然と見送った秀次は、われに返ると木村重茲を探させたが、やはり聚楽第の中にはいなかった。行き先は大坂とのことだが、逐電したのは明らかだった。
致し方なく渡瀬繁詮を呼んだ秀次は、明朝一番、白銀五千枚を朝廷に献上するよう命じた。
>>第10回は、7/13(土)公開!
ご購入&冒頭の試し読みはこちら▶伊東潤『家康謀殺』
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。
【『家康謀殺』刊行記念特集】
インタビュー▷ネットが無い戦国時代の情報戦【伊東潤『家康謀殺』インタビュー】
対談▷悪魔の唄、ここに誕生――【伊東潤×金属恵比須】歴史小説家とロック・バンドの異色コラボ第二弾!
レビュー▷名作の誕生(評・縄田一男)