桶狭間合戦、関ヶ原合戦、大坂の陣など、戦国時代の合戦や主要事件を網羅した、著者の集大成的短編集『家康謀殺』(著・伊東潤)より、「上意に候」を特別公開!(第1回から読む)
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前回までのあらすじ:秀吉の甥にして、関白の秀次。側近・重茲は殺生禁制の延暦寺神域で鹿狩りを行うなど暴虐を重ねる。秀次は朝廷の怒りをかい、追い詰められていく……。
七
酒井忠次は、あの時と同じように、蟹が這いつくばるように平伏していた。
「ご快癒、祝着に存じます」
「ああ、此度は何とか凌げたが、次はどうなるか分からぬ」
「帝もご快復なされ、天朝はこれにて安泰」
「お気遣い、かたじけない」
秀次は、忠次が病気平癒の祝いにやってきたものとばかり思っていた。
「関白殿下、唐突ではありますが、危急のことを内談いたしたく、お人払いを──」
「人払いだと」
「はい」
忠次は有無を言わさぬ顔をしている。
「分かった」
忠次の鋭い眼光に押されるように、秀次は接見の間から、小姓や茶坊主を下がらせた。
「お近くまで行ってもよろしいか」
「構わぬ」
すでに佩刀は預けられており、殺される心配はない。
忠次が二間ほどの距離まで膝行してきた。
「実は、よからぬ雑説を耳に挟みました」
「それは何だ」
「わが主が大坂城にて聞きつけてきたことです」
これで訪問理由が、病気平癒の祝いではないことがはっきりした。
「分かった。話せ」
「このところの関白殿下の行状に、太閤殿下はいたく心を痛め──」
「遠回しに言わずともよい」
「分かりました」
忠次が肚を決めたように続けた。
「なぜ、あの時、それがしの勧めを容れ、関白辞職を太閤殿下に言上しなかったのですか」
──今更それを蒸し返すのか。
秀次が迷惑そうに答える。
「こちらにも考えがある」
「もはや手遅れやもしれませぬぞ」
「手遅れだと。どういうことだ」
秀次には何のことやら、さっぱり分からない。
「すべては仕組まれていたのです」
「何だと」
「われらも、それに気づくのが遅れました。やはり、かの才槌頭は油断のならない輩です」
忠次がため息をついた。
「才槌頭と申すは、治部のことか」
「それ以外、誰がおりましょう」
石田三成は、鉢が大きく開いたような頭蓋をしているため、陰で才槌頭と呼ばれていた。
「何のことやら、さっぱり分からぬ」
「治部と常陸介が、つながっていたのでござるよ」
「つながっていた──」
「まだ、分かりませぬか。治部は常陸介を脅し、関白殿下を失脚させようとしていたのです」
「何だと!」
秀次は愕然とした。
「お静まりなされよ」
「しかし、どうして治部がわしを失脚させる。治部とわしは外征を中止させることで、目指すところは一致しているではないか」
「仰せの通り。治部は太閤殿下の死後を見据え、関白殿下を使って帰国してくる武断派大名を抑えるつもりでおりました。しかし──」
忠次の顔が悲しげに歪む。
「幼子か一族の木偶を使えば、それはもっと容易にできます。つまり──」
「わしは、もう要らぬということか」
「しかり」
──何ということだ。
秀次は、秀吉の邪魔になったのではなく、三成にとって不要となったのだ。
「待てよ」
秀次の心に猜疑心が芽生えてきた。
「まさかそなたは、太閤殿下とわしの仲を裂こうと、画策しておるのではあるまいな」
「はははは」
忠次が声を上げて笑う。
「滅相もない」
「いや、そうだ。三河殿と語らい、豊臣家に内訌をもたらし、天下をかすめ取ろうとしているのであろう。かように安易な策配、童子でも見抜けるわ」
「馬鹿馬鹿しい」
「何だと。それならば、なぜ、わしに親身になって助言するのだ」
忠次が鼻で笑う。
「徳川家のためでござるよ」
「どういうことだ」
「よろしいか」
忠次が童子を諭すように言う。
「関白殿下がおられれば、太閤殿下の関心、否、懸念は常にそちらに向けられます。それゆえ太閤殿下がお亡くなりになるまで、関白殿下にはご健在でいてほしいのです」
「つまりわしの存在が、徳川家の隠れ蓑になると申すか」
「聞き捨てならぬお言葉ですな。われらは、太閤殿下の的にならぬようにしておるだけです」
秀次の頭の中は混乱し、誰が味方で誰が敵か分からなくなってきた。
「われらは天下など望んでおりません。しかし太閤殿下が幼子を案じるあまり、われらに害を及ぼすことも考えられます。しかし関白殿下がおられれば──」
「まず、わしが狙われるというのか」
「仰せの通り。それゆえ関白殿下には、もう少しこの世にいらしていただきたいのです」
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