桶狭間合戦、関ヶ原合戦、大坂の陣など、戦国時代の合戦や主要事件を網羅した、著者の集大成的短編集『家康謀殺』(著・伊東潤)より、「上意に候」を特別公開!(第1回から読む)
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前回までのあらすじ:秀吉の甥・秀次は政争から身を引くため、関白を辞すべきか逡巡していた。秀吉は秀次に関白職を譲り後継者に指名していたが、秀吉の実子・拾丸(後の秀頼)の誕生で風向きが変わった。秀次は微妙な立場へと追い詰められていく……。
六
「殿、どうかなされましたか」
重茲の呼ぶ声で、秀次はわれに返った。
「すまぬ。ちと物思いにふけっておったのだ」
「殿、ここは一つ、殿の武辺ぶりを天下に示し、太閤殿下にご安心いただきましょう」
「とは申しても、どうやって、それを示すのだ」
「鹿狩りをやりましょう」
重茲が得意満面として言った。
「鹿狩りだと。そんなものが武辺ぶりを示すことになるのか」
「はい。三河殿は暇さえあれば鷹狩りを行い、野戦の手練れとなりました」
家康は鷹狩りによって山の地形を知り、兵の出し入れを学び、それを合戦に生かしていった。
「では、鷹狩りにいたそう」
「それでは月並みで、太閤殿下のお耳に入らぬやもしれません。ここは多くの者たちを駆り出し、大々的に鹿狩りを催すことで太閤殿下を驚かすべし。さすれば、『たとえ天下が静謐となっても、関白は武辺の心を忘れない。実に見事な心構えだ』と仰せになられるでしょう」
「しかしな──」
秀吉の気まぐれを知る秀次は気乗りしない。
「いまだ多くの者たちが半島に渡っておる。そうしたことは、しばらく控えた方がよいのではないか」
「いえいえ、だからこそ、かの者たちと少しでも同じ気持ちでいたいがために鹿狩りをしていると、太閤殿下もお察しになるはず」
「そういうものか」
「そういうものです」
重茲に勧められる形で、秀次は比叡山の近くで鹿狩りを行うことにした。
鹿狩りにあたって、重茲は「実戦のつもりで行うべく、配下に甲冑を着けさせました」と報告してきた。見れば勢子たちまで、実戦さながらに甲冑を着ている。
気乗りしない秀次を尻目に、派手に鉦や太鼓を叩きつつ鹿狩りが始まった。
だが秀次の家臣たちは鹿狩りに慣れていない。百人余の勢子たちが「あっちだ、こっちだ」と言いながら駆けずり回っているうちに、逃れた獲物を追って延暦寺の神域にまで踏み込み、殺生禁制の地で、鹿、猿、狸、狐、鳥類など大量の獲物を獲ってしまった。
それだけでなく、山中で草庵を営む貧しい僧の家にまで押し入り、台所に臓物を捨てたり、火を焚いてその場で獣肉を食ったりした。しかも重茲は、「狩りの後は野外で遊宴をいたしましょう」と言い、神域に女房衆を呼び付けることまでした。
比叡山の神域は殺生禁制の上、女人禁制である。
延暦寺はその場で抗議したが、対応に出た重茲が取り合わないので、朝廷に強訴した。
朝廷からの苦情を聞いた秀次は、すぐに謝罪の使者を延暦寺に差し向けたが、今度は朝廷から、「正親町上皇の諒闇に狩りをした」ということで叱責の使者が来た。
これには秀次も平謝りである。
現役の関白が先帝の諒闇を忘れて狩りをするなど前代未聞だが、秀次はそこまで気が回らなかった。こうしたことは、木村重茲をはじめとする腹心や年寄(宿老)が気を回すものだが、重茲たちは豊臣家の権威を笠に着ているので、そこまで配慮しない。秀次も、競争相手の秀俊が正式に小早川家に養子入りしたので、少し気が緩んでいた。
それ以来、鹿狩りはやめたが、問題はそれだけで収まらなかった。
文禄三年(一五九四)、京から大坂に向かう途次、行列の後方で騒ぎがあった。重茲の手の者が座頭を斬り殺したのだ。重茲に聞いてみると、座頭は暗殺者だったという。
致し方なく秀次は、座頭を手厚く供養してもらうために近くの寺に多くの寄進をした。
また重茲は「名刀か否かを試すには、試し切りが一番」と言い、秀次の制止も聞かず、二十人余の罪人を斬った。さらに「武辺者は色を好みます」などと言って、様々な女を連れてきた。秀次が「もう要らぬ」というのに、出自の定かならぬ捨て子や六十一歳の後家まで連れてくる。
重茲に苦情を言っても歯牙にも掛けず、「関白たる者、諸将に見劣りする奥では、陰で蔑まれますぞ」と言い、三十人以上の側室を聚楽第に住まわせた。
さらに重茲は、秀次の金蔵を管理していることをいいことに、独自の判断で諸大名に金を貸したり、さしたる理由もなく、関白への忠節を誓う誓詞を取ったりで、「秀次の権威の確立」を理由に、やりたい放題をしていた。
年寄の一人の渡瀬繁詮は「太閤殿下の心証よろしからず」と言い、重茲を蟄居謹慎させるよう訴えてきたが、重茲は太閤側近の石田三成と懇意にしており、そんなことはできない。秀吉家中との手筋(外交窓口)を任せている重茲を追放などしようものなら、秀吉との間に疎隔が生じ、疑念を持たれることも考えられる。
そうこうしている間に、文禄四年(一五九五)が明けた。
この冬の寒気は厳しく、秀次は持病の喘息がひどくなり、臥せることが多くなっていた。秀吉や諸大名からも、見舞いの使者が頻繁にやってくる。
秀吉からは、自らの侍医の一人の秦宗巴が派遣され、秀次の近くに侍るようになった。しかし、梅雨が明けて六月になっても病状は快復せず、苦しみは続いた。
ある日のこと、秀次が目覚めると枕頭に曲直瀬玄朔がいた。玄朔は当代随一の名医として名高い曲直瀬道三の養子で、宗巴とは相弟子の関係にあたる。
玄朔は秀吉の命で、この三月から後陽成帝の侍医になっているはずだが、どうしたわけか派遣されてきたのだ。
不可解と思いつつも、秀次は診療を任せていたが、これが後に大問題を引き起こす。
実はこの頃、後陽成帝の病が急激に悪化し、宮中は大騒ぎになっていた。すぐに伝奏衆の中山親綱を聚楽第へ派遣し、曲直瀬玄朔に参内を求めたが、応対した木村重茲は「関白殿下の診療中」を盾に、玄朔に会わせもしない。
そこで中山親綱は重茲を通じて玄朔の書いた処方箋を手に入れ、それで天皇の苦しみを和らげるという方法を取った。幸いにして後陽成帝が快復したからよかったものの、万一のことがあれば、秀次もただでは済まなかった。
しかし秀次は、自身の病がようやく治りかけている最中であり、周囲に気を配る余裕などない。
病も癒え、関白として執務できるようになった秀次の許に、あの男がやってきたのは、七月二日のことだった。
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