桶狭間合戦、関ヶ原合戦、大坂の陣など、戦国時代の合戦や主要事件を網羅した、著者の集大成的短編集『家康謀殺』(著・伊東潤)より、「上意に候」を特別公開!(第1回から読む)

前回までのあらすじ:秀吉の甥・秀次は、秀吉の実子・拾丸(後の秀頼)の誕生が引き金となり、立場を疎まれることに。秀吉と面会した秀次だったが、関白の辞職を切り出せずにいた。
五
大坂から京の聚楽第に戻った秀次は、接見の間で木村重茲と密談していた。
聚楽第は、天正十五年(一五八七)に秀吉が建てた豊臣政権の政庁兼邸宅で、天正十九年の秀次関白就任と同時に譲られ、それ以来、秀次はここで起居している。
「という次第だ」
秀吉との面談の一部始終を語ると、重茲が確かめてきた。
「つまり、太閤殿下に『関白辞任』を申し出なかったのですね」
「うむ。結句、そういうことになる」
「それは、よきご判断」
重茲が胸を撫で下ろした。
「やはり、それでよかったと思うか」
「言うまでもなきこと。今、手の者を使い、太閤殿下の内意を探らせておりますので、それが分かり次第、太閤殿下の意に沿うご返答をするのがよろしいかと」
「そんな悠長なことでよいのか。やはり辞意だけでも、人を介して伝えておいた方がよい気もするが」
決然と辞任を申し出なくても、「太閤殿下に一任する」という形も取れる。
「何を仰せか。下手なことを言上すれば、関白の座を赤の他人に持っていかれますぞ」
「それは困る」
「では、少し様子見としましょう」
秀次には一抹の不安があったが、それを重茲に言ったところで、「ご心配に及ばず」などと言われるに違いない。
重茲が言いにくそうに切り出す。
「実は殿が熱海に行っている間、太閤殿下が側近に漏らした言葉を、手の者から伝え聞いたのですが、殿は蒲柳の質の上、文弱に過ぎるとのことで、先が思いやられると仰せだったとか」
蒲柳の質とは、体が弱く病気にかかりやすい体質のことだ。
「太閤殿下が、さように仰せになられたのか」
「はい。そう聞きました」
秀吉の危惧も分からぬではない。自らが没した後、拾丸を守るのは秀次であり、その秀次の体調が思わしくないとなれば、権力を握るうちに、別の者に首をすげ替えておきたいと思うのは当然だろう。
──しかもわしは、かつて大きな失敗を仕出かしておるからな。
秀次は、小牧・長久手合戦に思いを馳せていた。
天正十二年(一五八四)三月六日、織田信長の次男の信雄が秀吉派の三家老を謀殺することで、小牧・長久手合戦の火蓋が切られた。
自分の許に転がり込んでくると思い込んでいた天下が、秀吉に簒奪されようとしていることに気づいた信雄が、徳川家康を恃んで旗揚げしたのだ。
十三日、尾張清須城に入った家康は信雄と合流すると、各地に蟠踞する反秀吉勢力に決起を呼びかけ、紀伊の雑賀・根来、四国の長宗我部、越中の佐々成政らを味方に付けた。
一方の秀吉は同日、池田恒興と森長可に尾張国の犬山城を奪取させると、兵を南に進めて信雄の勢力圏の伊勢国を席巻した。
さらに十六日、秀吉は犬山城にいた森長可に三千の兵を率いさせ、清須城攻撃に向かわせる。これに対して家康は、酒井忠次率いる五千の兵を森長可勢に当たらせた。
八幡林から羽黒川にかけて衝突した両軍は一歩も譲らぬ激戦を展開したが、兵力で劣る森勢は、次第に押されて潰走した。
緒戦は、家康が勝った。
犬山城に本拠を置いた秀吉は、一敗地にまみれた森長可の献策を入れ、別働隊に家康の本拠の三河国を急襲させ、慌てて兵を返そうとする家康の背後を、自ら率いる主力勢で突くことにした。
この作戦の指揮は、秀次と森長可の岳父にあたる池田恒興が執ることになったが、名目上の総大将には、秀次が指名された。
四月六日、秀次を総大将に、池田恒興、森長可、堀秀政率いる二万余の三河侵攻部隊が、尾張東部の丘陵地帯を迂回して岡崎に向かった。
しかし翌七日夕刻には、家康の知るところとなった。
八日、先手を担う池田・森両隊九千は、三河への進路を扼する岩崎城への攻撃を開始する。
池田・森両隊の背後は、堀秀政隊三千が固めた。
この時点で秀次本隊八千は、はるか後方の白山林で野営していた。堀隊との間には、仏ヶ根や檜ヶ根といった小丘群が横たわり、容易には連携が取れない地形にあったが、誰もそれを危惧することはなかった。
一方、家康は榊原康政と大須賀康高率いる四千五百の兵を先発させた。
九日未明、徳川勢の先手が白山林に駐屯する秀次本隊に奇襲を掛けた。予想もしなかった背後からの攻撃に、秀次本隊が突き崩される。秀次はほうほうの体で戦場から離脱した。
その頃には池田・森両隊も反転して徳川勢に挑んでいたが、敵の勢いを押しとどめる術はなく、瞬く間に崩れ立った。この戦いの最中、池田恒興とその嫡男の元助、さらに森長可が討ち死にを遂げる。
敗報を聞いた秀吉は家康との決戦に及ぼうとしたが、家康は迅速に戦場から離脱し、再び小牧山に籠もった。これにより戦線は膠着し、講和という流れになる。
敗戦の責任は、地形を吟味することなく、堀隊が迅速に救援に駆け付けられない地で野営した秀次に帰せられた。
秀次は、責を一身に負って秀吉に謝罪した。これに対して秀吉は叱責状を出している。
その中で秀吉は、「秀吉の甥であることを鼻に掛け、傲慢な態度が見られる」という批判に始まり、「進退の儀を取り上げる(勘当する)」「今後、行いを改めないなら首を切る」といった警告を発している。
天正十三年(一五八五)三月、秀次は名誉挽回とばかりに、紀州の根来・雑賀一揆との戦いにおいて、要衝の千石堀城を攻略した。
これにより秀吉は機嫌を直し、四国攻めでは弟の秀長に次ぐ副将の座を与えた。
かくして秀次は秀吉の期待に応える活躍を示し、近江八幡二十万石(重臣の石高を合わせると四十三万石)を与えられ、さらに天正十四年には豊臣姓を下賜される。
天正十四年末から同十五年にかけて行われた九州遠征では、秀吉が九州まで出馬することになり、秀次は畿内の留守を託され、これを大過なく全うした。
天正十八年の小田原攻めでは、緒戦の山中城攻防戦において、北条流築城術の粋を集めた山中城を半日で落とすという大功も挙げている。
その後、北条氏を降伏に追い込み、奥州まで遠征した秀吉は、秀次に奥州仕置を任せて先に帰国する。秀次はこの大任もつつがなくこなし、周囲から次世代の豊臣家の中核と目されていく。
そして天正十九年十一月、弟の秀長と一子鶴松を立て続けに失った秀吉は、秀次を養子に迎え、さらに十二月には関白職を譲り、秀次を名実共に豊臣政権の後継者に指名した。この時、秀吉は五十五歳、秀次は二十四歳だった。
>>第7回へ
ご購入&冒頭の試し読みはこちら▶伊東潤『家康謀殺』
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。
【『家康謀殺』刊行記念特集】
インタビュー▷ネットが無い戦国時代の情報戦【伊東潤『家康謀殺』インタビュー】
対談▷悪魔の唄、ここに誕生――【伊東潤×金属恵比須】歴史小説家とロック・バンドの異色コラボ第二弾!
レビュー▷名作の誕生(評・縄田一男)