「あ、電話だ。俺、出ますねっ」
隼人は逃げるように立ち上がって、廊下まで歩を進めた。
「出なくてえい!」
祖母が怒鳴ったのと、隼人が受話器を耳に当てたのはほぼ同時だった。
『ととをくうちょるんですよねえ』
「はあ?」
相手は隼人の様子など気にも留めず続けた。
『ととを、くうちょるんですよねえ』
電話口の相手の顔は見えない。ただ、声の調子から、にやついているのは分かる。悪意を持って。
ついさっきまで目の前の老人を不気味だと思っていたが、その感情は消える。代わりに、怒りが
やはり、村八分になっていたのだ。
これが、嫌がらせか、と思う。
彼女がおかしくなるのも当たり前だ。
嫌がらせを受けて、おかしくなって、あんな変な問いかけをしてしまったのもそのせいだ。
「ふざけんなよ」
隼人の
「ふざけんな、お前、誰だか知らねえけど、おばあさんにこんな下らねえことして」
「やめてっ」
遮ったのはほかならぬ匠の祖母だった。
「もう聞かなくていい、切ってっ」
悲鳴のように言う。隼人は
「てめえ、どこの誰だよ」
『まわりまわりのこぼとけはぁ』
やめてえ、やめてえ、と繰り返している。
『なぁぜにせがひくいぃ』
電話の主は
『おやのたいやにととくうてえ、そおれでせがひくいぃ』
ブツッと、脳に響くような音がした。
匠の祖母が受話器を奪い取り、強制的に電話を切る。
「やめてって言うたがでしょう!」
「ご、ごめんなさい……」
祖母ははあはあと荒く呼吸をしてから、よろよろとした足取りで居間に戻り席に着く。
「ごめんなさい、勝手なことして……でも、俺……」
「もうええから」
弱々しいが、有無を言わさない口調だった。
「もうええから、食べ終わったんやから、お
「あの、匠は……」
「あの子のことは、ええから。あなたは、お風呂に入りなさい」
隼人は
不気味な声だった。年寄りというよりは、むしろ若者に近い男だ。悪意しかない、粘着質な声色。バスの中に若者はいなかった。匠の話では、学校もかなり遠かったと言うから、このあたりには若い人間自体ほとんどいないような気もする。年寄り連中が嫌がらせのためにわざわざ若者を雇って電話をさせたのだろうか。あるいは、声を変える機械を通して
そこで隼人の思考は中断された。
祖母が、隼人の顔をじっと見ている。
責められているような気分になって、「ごめんなさい」と再び
回り回りの小仏。
これは
回り回りの小仏は
何故に背が低い
親の逮夜に
それで背が低い
よく考えると不気味な歌詞だ。
逮夜というのは命日や忌日の前夜のことで、いかにも不吉だ。魚を食べたところで一体なんなのかと思うが──かごめかごめといい、わらべ歌は怖いものが多い。だから、この不気味さは、歌が本来持つもので、無性に不安になってしまうのは、ただの勘違いだ。
ただの、田舎の、下らない、嫌がらせ。
自分で自分に言い聞かせる。
そして、いちいち田舎だの、都会だのに
大学にも「東京の人間は冷たい」とか「東京のご飯は
住んでいるところだけで個人のパーソナリティを決めつけるなんて恥ずかしいことだ。
出身地は違えど、隼人と匠は、そういう価値観を共有できたからこそ、親しくなったのだ。
「匠、どこにいるんだよ」
脱衣所で服を脱ぎながら、そう呟く。
匠の祖母はああ言ったが、風呂から出ても帰ってきていなかったら、このあたりだけでも捜してみようと思う。
隼人は息を止めて、風呂に頭まで浸かり、十秒数えた。
小さい頃、母が言っていた。
「嫌なことがあった日はね、お風呂にザブーンって浸かるの。それで、十秒間お湯の中で、『今日のことは忘れる』って唱えてから頭を出すと、スッキリするよ」
アルバイト先に遅刻したとき、課題のことで先生に怒られたとき、彼女と
今日のことは忘れる。
今日のことは忘れる。
今日のことは忘れる。
心の中でそう唱え、勢いよく立ち上がる。
電話のベルだ。耳が、その音を拾う。
気のせいではない。また、電話が鳴っている。
隼人は大きく
洗い場で、緩慢に体を流し、風呂場の内扉を開ける。年代ものの曇りガラスの扉は、きゅうきゅうと嫌な音をたてた。
髪の毛をタオルで乾かしている最中に、ふと違和感に気づいた。
電話が鳴っている。
まだ鳴っているのはおかしい。
いい加減、匠の祖母が取るはずだ。
匠の祖母は隼人に先に風呂に入るように譲ってくれたから、まだ起きているはずだ。
万が一うとうとするようなことがあっても、ここまでやかましく鳴りつづけていたら誰でも目が覚めてしまうはずだ。
不安が止まらない。
隼人は髪から水がしたたり落ちるのも構わず、上半身裸のまま廊下に出る。
大丈夫だ、と言い聞かせる。あんな変な電話があったから、今日はもう電話を取りたくないだけだ。だから、自分が出ればいいだけのことだ。
大丈夫だ。大丈夫。大丈夫。
電話の置いてある場所に
「あのお、電話」
隼人は──安心するために、誰かの声が聴きたくて、そう言いながら扉を開ける。
大丈夫だ。
大丈夫。
大丈夫。大丈夫。
体の全身から、力が抜けていく。足に力が入らない。床に座り込む。
目の前の光景を信じたくない。
するべきことは分かっている。それでも、立ち上がることができない。
靴下を
「おばあさん」
返事はない。
電話が鳴っている。
試し読み
紹介した書籍
関連書籍
おすすめ記事
-
特集
-
特集
-
特集
-
特集
-
特集
書籍週間ランキング
6
ユビキタス
2025年3月31日 - 2025年4月6日 紀伊國屋書店調べ
アクセスランキング
新着コンテンツ
-
レビュー
-
連載
-
特集
-
特集
-
レビュー
-
文庫解説
-
連載
-
連載
-
特集
-
特集