五
そして、八月一日。
アパートで目が覚めた菊池が枕元の本を見ると、栞の位置はほとんど結末に近かった。
恐らく、もう最終章に入ったことだろう。そして、結末──呪いの期限は今夜、早ければ夕方には訪れるはずだ。だが、まだ時間はある。
菊池は、部屋の隅に置いてあった袋を開けた。二十九日に、寺からの帰りにホームセンターに寄って買ったものだ。中には、作業用のロープが入っている。
菊池はその強度を確かめると、自分自身を部屋にある柱に縛り付けた。
胴体に何重にもロープを巻き、しっかりと結ぶ。一人だけでの作業は思ったよりも難航したが、何とか出来た。背中はぴったりと柱にくっついていて、身動きは満足に取れない。……これでいい。あとは、絶対にこの部屋から出ないこと。
飛び降りが出来るほどの高さの場所に行かないことだ。
こう考えたのだ。……呪いが解けないなら、呪いを実行させなければいい。
このアパートは二階建てで、落ちたところで命に係わることはまずない。『ゆうずど』が自分に飛び降り自殺をさせたいなら、まずは高い建物に連れて行く必要がある。
だから、それを阻止してやる。
部屋の姿見に映る自分は、とてもまともには見えなかった。それでも、もうこの方法しかないのだ。
菊池は、ただひたすら「結末」が訪れるときを待った。部屋の中では、クーラーの稼働音だけが聞こえる。冷房が効いているおかげで熱中症になることはない。そばには水の入ったペットボトルが置いてある。だが、緊張のせいかやたらと喉が渇いて、午前中で三分の二ほども飲んでしまった。午後は節制しなければならない。
じっとしていると、ふと紙同士が擦れ合うような音が聞こえた。
心臓が縮み上がる。しかし、〈紙の化け物〉の姿は見えない。まだ時間があるのだ。
トイレに行きたくなったが、もしロープを外した瞬間に外へ連れ出されてはたまらない。事が終わるまでは動かず、ただ待つ。漏らすことが何だ。命には代えられない。
時計の音が規則的に鳴る。……どれくらい経っただろう。
すると、手許にある携帯電話が、けたたましく鳴り始めた。
ひどく驚いたが、いい眠気覚ましになった。携帯電話を取って開くと、表示されていた名前は「田辺夕香里」。「黒猫の森」のサークル長だ。
通話開始ボタンを押すと、鈴のような声が聞こえた。
「──あ、菊池くん? 今、大丈夫?」
菊池は「はい」と返す。まさか、自宅でロープに巻かれているとは思わないだろう。
「えっと、この前の本──『ゆうずど』のことやけどね、OBの先輩に訊いたらいくつかわかったことがあるから、報告しようと思って」
そうだった。あれ以来ずっと連絡がなかったのですっかり忘れていた。
「ありがとうございます。……それで」
「うん。その六人の共通点なんやけど──最初の死者が出るちょっと前に、その六人だけで読書会したらしい。そのときの本が『ゆうずど』やったかもって、先輩が」
やっぱりだ。推理どおり。今更それがわかったところで何の解決にも繫がらないが。
「あと、六人が亡くなった状況なんやけど、まず一人目が交通事故で、二人目が溺死、三人目は下宿先が火事になって──」
え、と菊池は声を漏らした。
さらに四人目、五人目と死の状況を伝える声を遮って、菊池は訊く。
「ちょ、ちょっと待ってください。……ぜ……全員、飛び降り自殺やないんですか?」
「いや? 死に方はバラバラみたいよ。飛び降りもいたけど、他はみんな──」
そこまで聞いて、携帯電話が手から滑り落ちた。電話は畳の上に落ちて、少し離れたところまで転がる。田辺がまだ一人でしゃべり続けている声が聞こえる。
死に方が違う。結末は「飛び降り自殺」に統一されていない。
その事実が頭の中でぐるぐると巡る。
ということは、俺の結末も、飛び降り自殺ではない可能性が──
そのときまた、紙同士が擦れ合う音がした。
前へ向き直ると──いた。いつの間に。
〈紙の化け物〉が、閉じたカーテンの前に立っていた。
薄暗い和室。畳の上に、奴は裸足で立っている。身体についた大量の紙が擦れ合い、かさ、かさ、と落ち葉のような音をたてた。顔は相変わらず長く重たい髪に隠れていて、その表情は一切読み取れない。
来た──菊池は、全身が硬直するのを感じた。
「キク、チ」
化け物が自分の名前を呼んだ。金属音に似た声。
奴は畳の上で脚を擦らせながら、ゆっくりと近づいてくる。
一歩近づくごとに、餓鬼のような脚が、すり……すり……と音をたてる。
身の毛がよだつ。全身が粟立つのを抑えられない。
「トウマ、は」
両脚が勝手に動く。
身じろぎするたびに、ロープがぎち……ぎち……と擦れ合って鳴る。
「自らの意思で──ロープの輪に、首を通した」
そう聞こえた瞬間、菊池は頭の中が真っ白になった。
噓だ、とつぶやく。
ロープを使った死に方なんて、一つしか思い浮かばない。
それは、菊池がこの世でもっとも忌むべき死に方だった。
すり……すり……と足音が鳴る。化け物の姿が目の前まで迫ってくる。
お前は、俺に、飛び降り自殺をさせたいんじゃなかったのか──
「アトは、足の、指先に力を込メるダケ、だ。足と床の間のワずカナ、空間。ソれが生と死ノ間なノダ、と彼ハ知った。タッた、三十センチほドノ隙間。だが、それコソが、決シて、埋まル、コとのナイ、絶対的ナ断絶なノダ、と」
髪の毛の奥から聞こえる声が、徐々に鮮明になっていく。
だって、違う、と駄々っ子のように繰り返す。飛び降り自殺だ。宮原も日下部もそうだった。二人連続してそうだったのに、どうして自分は別の死に方になるのか。
そのとき、ひらめきが頭の中で閃光のように迸った。
もしや──宮原すみれの「結末」は、「飛び降り自殺」ではなかったのではないか。
彼女が残した遺書を思い出す。こんな結末は耐えられない──あれは「飛び降り自殺」のことではなく、彼女が『ゆうずど』に与えられた「結末」を指していた。
恐らく、自ら死を選んだ方がマシと思えるような、壮絶な結末のことを。
「ロープガ、首に、食イ込む。ソの瞬間、生キテいル、ウちには味ワう、コトのナいであロウ、禁断ノ快感が、キクチの全身カラあふれ、出しタ」
緑青色の手が、菊池の肌に触れた。
吸い付くような冷たい手。気持ち悪い。首から上を激しく振って逃げようとする。
だが、身体が動かない。菊池は自らの行いを悔いた。
しかし、もう手遅れだった。
獣のような咆哮が口から迸る。
涙があふれてくる。歪んだ視界に化け物の姿がどんどん迫ってくる。
嫌だ。ダメだ。嫌だ。自殺だけは。
首吊りだけは、絶対に。
──斗真は絶対、自殺なんかせんでね。
母の声が蘇った。喪服姿ですすり泣く彼女の背中も。
そして、あの日見た父の最期も。
──飛び出した両目。異様に長くなった首。青黒い顔。口からだらんと垂れ下がった赤い舌は、まるで別の生き物みたいだった。異臭がしていると思うと、父の下半身が大きな染みを作っていることに気づく。
それは──菊池が最も恐れる死の形。
菊池は、絶叫した。
──嫌だ! 自殺は嫌だ! 殺してくれ!
殺されたとわかるように死なせてくれ!
そのとき、緩んだロープが蛇のように首に巻き付く。
次の瞬間、菊池の身体は見えない力でふわりと浮き上がった。
(続きは本書でお楽しみください)
作品紹介
ゆうずどの結末
著者 滝川 さり
発売日:2024年02月22日
「こんな結末は耐えられない」絶対に読んではいけない、禁忌の本が誕生。
こんな結末は耐えられない――。
大学に入学して3か月、菊池斗真はサークルの同級生・宮原の投身自殺を目撃してしまう。死因に不審な点もなく遺書もあったことから、彼女の死は自殺と断定された。
宮原の死から数日後、菊池は同じサークルに所属する先輩の日下部から、表紙にいくつかの赤黒い染みがある本を手渡される。それは、宮原が死の瞬間に持っていた小説らしい。
「ゆうずど」というタイトルの小説は角川ホラー文庫から刊行されている普通のホラー小説で、特に宮原の死と結びつけるような内容は描かれていなかった。
しかし、本を読んだ日下部はその翌週に自殺をしてしまう。
そして日下部の死後、なぜか菊池の手元には「ゆうずど」の本が現れていた。
何度捨てても戻ってくる本。そして勝手に進んでいく本に挟まれた黒い栞。自分にしか見えない紙の化け物。
菊池は何とか自らに迫る死の呪いを回避するために、ある手段を講じるが――。
その■■を、絶対に読んではいけない。
あなたの身に恐怖が迫る、新感覚ホラー誕生!
詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322306000297/
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