第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉受賞作『デジタルリセット』
書店員さんたちの圧倒的な支持を受けて、第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉を受賞した『デジタルリセット』の冒頭を特別公開。理想の環境を求めて自らの基準にそぐわないものを殺しては次の人生を始める=「リセット」を繰り返す、新たなシリアルキラーの恐怖をご堪能ください!
『デジタルリセット』試し読み#2
木田がゴルフ雑誌に続いて、その日の朝刊に目を通している時、事務所の玄関扉が開く音がした。顔をあげると、パートタイムで事務の仕事をしている
「あら、木田さん、今日も? サボってばっかでお仕事大丈夫?」
「ええねん、ええねん。ワシがブラブラできるのは、会社が順調な証拠やねん。ワシがおらん方が社員は安心するんや」
京子は六十前のふくよかで明るい女性である。村岡が勤めていたゼネコンで営業事務をしていた。退職して専業主婦になっていたが、村岡が無理を言って来て貰っている。
「ふふふ、都合のいい理屈やこと。じゃあうちの社長の旅行もゆっくりと行ってもらわんとね」
「そやけど、ここは本社やのに村岡さんが留守でも京子ちゃんとタカさんのたった二人でよう回ってるねぇ。感心してるんや」
「そりゃぁ、タカさんが完全にコンピューター化してくれたからよ。ねぇタカさん、ペーパーレスやったっけ?」
孝之は両手を頭の後ろで組んで、椅子を二人の方へ回した。
「全営業所の端末をネットでクラウドサーバーに接続して、業務処理はサーバー側で行うようにしたんですよ。サーバーを社外に置くと色々と不安でしょうけど、セキュリティは、実績があるクラウドサービスと契約してるから安心してくださいね。その上で、日常業務は全て端末画面入力に変更して、手書き伝票をなくしたんです。審査や承認も、以前は原紙に押印して回してたんで、時間がかかりましたよね。今は、ワークフローにして電子署名のオンライン決裁を採用したから、ネット環境さえあれば、どこででも決裁できるんです。だから業務効率は従来より格段に向上していますよ」
京子は両手をポンと
「そうそう、だからこの前も、社長に
「へぇ、そうなんや。
木田は冗談を言いながらも、そんな難解なシステムを実現した孝之に感心している。孝之は目の前で長い脚を組んでゆったりと座っている。
──頭脳も
鼻筋の通った端整な顔で、手足が長いため、細身のスーツがよく似合う。上着を脱ぐと、胸板が厚く、ギュッと締まった身体を想像させる。時々、孝之が直接、木田の会社に書類を持って来ることがあるが、エントランスドアのすりガラスに長身の孝之のシルエットが映るだけで、会社の女性社員達がザワついていることが、木田にも分かる。年齢は三十五歳と聞いているが、二十代に間違えられることも多いらしい。まだ独身で特定の彼女もいないことが、木田には不思議だ。
──天は二物を与えず? 例外もありってことやな。それにしても、タカさんのお陰で便利になったわ。
「うちはお宅の不動産工事全て任せて貰ってるから分かるんやけど、紙やFAXで仕事の受発注やってた頃より、十倍は速くなってるわ。けど、タカさんは元はコンピューター屋さんなんやね。そんな人が不動産屋になるって珍しいんやないの? 今は営業までやってるやん」
「メーカーを辞めてから次の就職までの
「それをタカさん一人で実現したんやね。なぁ、京子ちゃん」
木田が感心した声を上げて、被服ロッカー前で仕事用の薄手のカーディガンを羽織っている京子を見た。
「だから、うちの社長はタカさんが大のお気に入りで、『孝之君はわが社に来て欲しい』って、ずっと言ってたのよ」
「従業員がしっかりしてると、オーナー社長は楽なんや」
「全くやね。さぁて従業員はお仕事、お仕事」
京子は自分の席に向かったが、急にバタバタと窓に駆け寄った。
「あら嫌やわ。また猫が来てる」
木田も声に釣られて、ソファから腰を上げ、京子の隣に並んで立った。駐車場の端から裏手に抜ける歩道の塀沿いに五匹の猫がいる。
「近頃、あの辺りでよく見かける黒猫や。ありゃ
京子は視線を窓に向けたまま、孝之に語り掛けた。
「野良猫がそんなに珍しいわけやないけど、まとまっていると不気味やわ。ねぇ、何か餌になる物が落ちてるってことない?」
木田は孝之を振り返った。京子の声が聞こえないのか、孝之はパソコンの画面に見入っている。
「ねぇ、タカさん。猫が何匹か、いつも駐車場の端っこの同じ所に来るんやけど、あそこって何かあるの?」
「えっ、猫がどうかしました?」
孝之がやっと気付いた様子で顔を上げると、京子は窓に向かって指差した。
「ほら、あそこ。ここんとこ毎日やって来て、ああやって地面に顔くっつけて何かやってるのよ」
「あのあたりなぁ、排水
木田はふと頭頂部に吐息を感じ、左肩を引いて身体を後ろへよじりながら見上げると、いつの間にか孝之が背後に立っている。
「木田さん、排水桝の辺りに行ったんですか?」
孝之の声のトーンが低い。
「ああ、ゴメン。ちょっと、猫が寄り付き出したのが気になって。近寄ったらあかん場所やったね」
いつもと違う孝之の様子に木田は戸惑う。
「前も言いましたけど、地盤が悪くて補強工事をしなくちゃならない箇所があるから、側溝から排水桝にかけてと、冷凍室周辺は近寄っちゃ駄目ですよ。倉庫の冷凍室側のブナの大木なんかいつ倒れてもおかしくないんですよ。前のオーナーがこの物件を手放した理由もそれですから」
「ホンマ、ゴメン。気をつけるわ」
「これで、五回目ですからね」
孝之はやっと笑って、二人に並ぶと、長身の上体を
「あそこは、倉庫や冷凍室の排水が丁度地下の下水に流れ込む箇所で、フィルター用に目の細かい金網があるんです。それに地盤の問題とは別に、冷凍室の排水バルブを閉じてもずっと漏水して、その水が側溝に流れてるんです。先週五回目の修理を頼んだのですが、まだ直ってないんですね」
「冷凍室の排水に猫の餌になるようなものが混じってるってこと? レストランやった頃の古い食材が残っていて、冷凍室で腐ってるってことないかしら?」
京子は衛生面を気にしているようだ。
「いやぁそれはないと思いますよ。引き渡しの時は冷凍室も停まってたようですけど、旅行に行く前に社長が掃除してたんで、古い食材が流れ出たのかもしれませんね」
「でも、うちの社長もなんでまた冷凍室を急に動かしたりしたのかしら?」
京子が不思議そうな顔で孝之を見ると、孝之はニッコリ笑った。
「ここだけの話ですよ。社長は業務用の大型冷凍庫のレンタルを考えてるんですよ」
木田が驚いた。
「初耳やわ。うちの出番あるんやろか?」
「だから、まだ発案段階ですよ。幸い自社に冷凍室があって、維持費や使用感の検証実験のために動かしただけですから、楽しみに待っててください」
孝之の言葉に木田は安心した。
「それやったら、猫さんにも実験費用を持って
京子が
「全く、木田さんたら」
「すまんねぇ。何か言わんとあかんて、使命感を覚えるんやねぇ」
京子は口に手を当てて上品に笑っている。
孝之が修理業者の報告書を見て、哀しそうな声を出した。
「業者は『
木田が孝之を窺うと、その表情は温和なままである。
──五回修理しても直らへんのに、タカさんて怒ることないんやろか?
「でも、こうやって見てると、猫の会食って上品なんや。ほらガツガツしてないやろ」
「ほほほ、木田さんたら、ホンマ
京子は窓から離れ、席に戻って行く。
「吞気はワシの取り柄なんや。けど頭は空っぽやないで。色々感動して、一杯考えてるんやで」
「そりゃ、そうね。猫の食事を見ても感動できる人なんやから」
木田は少しずつ離れていく京子の声を聞きながら、ソファに戻り、新聞記事の続きを読みだしたが、ふと、窓側に目を向けた。
一人残った孝之が険しい表情で猫たちを見つめていた。やがて我に返ったように穏やかな表情になると、自分の席に戻り、仕事に集中し始めた。
(つづく)
作品紹介・あらすじ
デジタルリセット
著者 秋津 朗
定価: 792円(本体720円+税)
発売日:2021年12月21日
第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉受賞作!
許すのは5回まで。次は即リセット――。理想の環境を求めるその男は、自らの基準にそぐわない人間や動物を殺しては、別の土地で新たな人生を始める「リセット」を繰り返していた。
一方、フリープログラマーの相川譲治は、シングルマザーの姉親子の失踪に気付く。姉と同居していたはずの男の行方を追うが……。
デジタル社会に警鐘を鳴らすシリアルキラーが誕生! 第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉受賞作。
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