俺と師匠とブルーボーイとストリッパー
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【祝・新井賞受賞】「血のつながり」はなくても、そこには家族があった。笑いと涙の人間讃歌。桜木紫乃『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』#1
書籍発売前に第13回新井賞を受賞し、話題沸騰中の『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』。2月26日の発売に先がけ、第1章の読みどころを掲載します!
「世界的有名マジシャン」「シャンソン界の大御所」「今世紀最大級の踊り子」というキャッチコピーとは正反対のタレントたちと主人公が出会う場面です。ぜひお楽しみください!
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
さて、と廊下の従業員ロッカーへ着替えに戻ろうと思ったところへ、遠くから壁を
夕暮れの寒風が薄着に
「すみません、今日からのタレントさんですか」
三人の視線が一斉に章介に向けられた。大、中、小――誰が歌手で誰がマジシャンか分からないが、彼らの並んだ背丈は斜め四十五度に見事な斜度をつけていた。赤いオーバー、ベージュのコート、黒い背広の順に背丈が小さくなってゆく。
「駅に着いても誰も迎えに来ない、店に着けばドアが開いてない。ここの店は従業員にいったいどういう教育をしてるのかしら」
怒鳴っているのは章介も見上げるほど背の高い赤いオーバーの男で――野太い声で女言葉を使っている。真ん中では章介とそう違わぬ背丈の、これは明らかに女であるがタレントには見えそうもない人間がのっぺりとした薄暗い表情で突っ立っている。端のひとりは見事な小男だった。くたくたの背広に大きなトランクがふたつ。見れば大男も女も小男も、それぞれに大きな荷物をふたつずつ携えている。
「すみません、寒いので早くこちらに」
大男が率先して文句を言っているが、ほかのふたりはどうやら寒くて声も出ないらしい。開店に向けて暖房を効かせているフロアへと案内すると、一気に呼吸の音が聞こえだした。
事務室に顔を出し「タレントさんたちが到着しました」と声を掛ける。木崎が「おう、ありがとう」とフロアに出てきた。
三人を見て、普段はほとんど表情を曇らせるということのない彼の
「失礼ですが――」
まるで「タレントさんはどちらに」と続くのを半ば期待してそれを遮るみたいに、大男が口を開いた。
「あたしがソコ・シャネル。こっちのおばさんがフラワーひとみ、このおじさんがチャーリー
額が後退気味で、つるつるの派手なシャツに真っ赤なオーバーを羽織った、見上げるような大男がシャンソン界の大御所「ソコ・シャネル」なのだった。
章介は、居心地悪そうに微笑みながら頭を下げる世界的有名マジシャン「チャーリー片西」と、相変わらず表情の暗い今世紀最大級の踊り子「フラワーひとみ」を交互に見た。多少、遠慮のない視線になっていることは気づいている。三人は、今まで出会ったどんなタレントとも違っていた。惹句とは程遠い場末感だ。木崎は眉間に寄った皺をほんの少し浅くして言った。
「ステージは八時から二回転でお願いいたします。もう少ししたらバンドメンバーもやってきますので、細かな打ち合わせはそのときに。こちらで出来ることは最大限お手伝いいたしますので、何でも言ってください」
今日からのステージに不安を感じないはずはないのに、木崎の声は張りを失わない。その声が不意に章介の方に降ってきた。
「名倉くん、きみ照明出来たよね」
夏のイベントで照明係が腹の下る風邪をひいて三日間使い物にならなかったときに、見よう見まねでなんとか乗り切ったことを思い出す。ステージにスポットを固定して、点けたり消したりするだけだったから、出来るというほどではない。いや、と言いかけたものの木崎の眉間には先ほどより深い溝がある。うなずきも否定も出来ないでいると、今日から照明を務めてくれと続いた。
「駆け落ち、だそうだ」
「誰が、ですか」
照明係が店のナンバーワンを連れて逃げた。柔らかで目立つこともない、ただにこにこと席に着くだけで
ということで――と木崎の視線がフラワーひとみに向いた。
「お願いがあります、フラワーさん。ギャラにフロアの分をのせますんで、もし差し支えないようでしたら、席に着いてもらえますか」
「なんやて」
章介はそのとき初めてフラワーひとみの声を聞いた。男のソコ・シャネルにひけを取らないほどガラガラと低い、酒と煙草で
「あんた、うちにショクナイやれ言うんか」
「ええ、年末にナンバーワンがいないというのは大変な痛手でして。フラワーさんが舞台と客席の両方を持っていただけると、その穴も埋まると考えまして」
ひとみは「けっ」と鼻を鳴らした。
「なんや年末にくそ寒い日本の端っこで裸仕事か思うたら、酒も売れやて。こりゃええ年越しやな。人助けついでに、財布ごとチップ巻き上げたるわ」
言ったあと彼女は、コートのポケットから取り出した煙草に火を点けた。
「ステージの支度時間もギャラのうちやろ。そこはお店の含み損、ええな」
木崎がうやうやしく腰を折った。章介もつられて頭を下げる。
「おい、ボン」
彼女が自分を呼んでいるのだと気づかずぼんやりしていると、フラワーひとみが怒鳴った。
「ボン言うたらお前しかおらんやろ。よう見てみい。お前以外は電信柱とちんちくりんおやじと優男やで」
ここはいくら
「ボン、照明はええ腕なんか」
「すみません、見習いに毛が生えたようなもんで」
「毛が生えてるかどうかは、うちが判断するわ。パーヨンはあてるとき間違うたらえらい
パーヨンが何を指すものか考える間もなく、フラワーひとみはスーツケースを開き、大きな角封筒を取り出した。渡された封筒は長旅に連れ回されすっかりくたびれている。そっと開くと、中にはセロファンを貼った中抜きの台紙が入っていた。
「ボン、それがパーヨンや。赤が八、青が四。八×四で、パーヨン。衣装を脱ぐときにぱっとこっちに切り替えるんや」
割って入るように、ソコ・シャネルが「あたしは白を強めにね」とウインクする。端っこでチャーリー片西が両手をこすり合わせながら柿の種そっくりな目で微笑んでいた。
ということで、よろしく――木崎が三人を楽屋に案内するよう指示して事務室へ戻った。
気が重いのは照明係を引き受けたことだけではなかった。照明係は
章介はステージの横に張った黒いカーテンを抜けて、楽屋のドアを開けた。
「いやだ、ここを三人で使うわけ?」
ソコ・シャネルが見事なファルセットで語尾を伸ばした。太い声でフラワーひとみが笑う。
チャーリー片西の目は相変わらず柿の種だ。
畳大の鏡を貼った壁はあるが、丸椅子が重ねられたほかは段ボールが積み重なった、楽屋とは名ばかりの部屋だ。数か月、楽屋を使わないで済む地元の歌手が出演しているうちに、
「すみません、すぐ片付けます」
章介は肩のあたりまで積み上がった段ボール箱をひとつずつ床に下ろし、中を確かめる。ここにも数年前のイベント衣装や小道具、切れて使い物にならない電球や、なぜか
段ボールをのぞき込んだソコ・シャネルが「ひどい店ねえ」とため息を吐く。章介は「すみません」と腰を低くしながら急いで五箱の段ボールを通用口の外に運んだ。すべてゴミとして出してしまえそうなものばかりだった。
すっかり暮れた夜の街にネオンの花が咲き乱れている。冬枯れの木々が息を止めているのを見上げると、後頭部のあたりを父の遺骨が通り過ぎて行った。
今夜から、フロアの雑用に加えて照明とアナウンスも章介の仕事になる。熱を吸い取ってゆく冬空にひとつ白い息を吐き上げた。
隣のビルとの隙間に積んだ段ボールは、雪が降る前に回収車に持って行ってもらわねばならない。この段ボールに父親を入れておくことを想像したところで寒さに負け屋内に入った。
見ると、楽屋の前にチャーリー片西がぼんやり突っ立っている。タレントに出番を知らせるのも章介の仕事なのだが、さて今夜からはどうしようかと、チャーリー片西の姿を見て頭をひねる。
「チャーリーさん、どうかしましたか」
「いや、おふたりが化粧と着替えをすると言うので、わたしは」
世界的有名マジシャンの声は消えそうなくらい細い。これは音響が大変そうだ。
「ちょうど良かった。今のうちにステージの立ち位置を決めましょう。テープで印を付けておかないと」
「ああ、そうですね」
チャーリー片西は、頭を上下させずにステージの前まで歩いた。よれた背広がまるで体に合っていない。マジシャンが、先ほどビールケースとベニヤ板で急ごしらえしたステージに立った。彼は掃除用の蛍光灯の下で「このあたりですかね」と細い声で訊ねた。
「広さはどうですか。演し物に差し支えないでしょうか」
「充分ですよ、わたしのマジックはこぢんまりとしたものですから」
こぢんまりとした世界的有名マジシャンか、とつぶやき、ステージ屛風の裏側に置かれた道具箱から白いビニールテープを抜いて戻った。マジシャンの立ち位置に十センチに切ったテープで×印を付ける。
「演し物で、マイクの必要はありますか」
「ええ、少ししゃべりますので」
「じゃあ、マイクスタンドの高さも合わせますね」
はあ、と頷いたマジシャンの前に、ステージ脇にあったマイクスタンドを置いた。ステージを足して正解だった。ドラムに近すぎると、この小男はドラムセットの一部になってしまう。
「チャーリーさん、うちの音響はけっこういいはずなんですが、出来るだけ大きな声でお願いします」
はあ、と頷いたマジシャンは、なにやら首を傾げたりげんこつに向かって
「すみませんが、その名前で呼ばれるのとても恥ずかしいので、どうかわたしのことは師匠とお呼びください」
自分から「師匠」を名乗るタレントに出会ったのは初めてだった。分かりました、と返したあとは笑いをこらえるのに精一杯で、楽屋でソコ・シャネルが怒鳴っていることに気づくのが遅れた。
「ボン! ちょっと、ボン。なんなの、ここは」
章介はいつの間にか「ボン」になっていた。このぶんだと、ここから先一か月近く「ボン」のままだ。大声で返事をして、舞台横のカーテンをめくった。
(つづく)
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