元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売になりました! その中から選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。
>>前話を読む
◆ ◆ ◆
なんとか業務を終えた新だったが、やはり具合がよくなることはなく、力なくロッカーにもたれかかった。
「大丈夫すか?」
同僚がロッカーからビニール袋を取り出し渡してくる。小さく礼を言い口を当てるが、出るのは唾液と嘔吐きだけだった。
「明日ゆっくり休んでくださいね。」
返事もできず、新はかくかくと首を縦に振った。
「そういえば、昨日『レインコート男』が昼間に目撃されたらしくて。あんま出歩かない方がいいかもですよ。」
彼はそう言い残し、更衣室を後にした。数十分後、落ち着きを取り戻した新はそそくさと職場を出た。
コンビニエンスストア・「ファミワ」。
スマートフォンを開いた新だったが、珍しく通知がない。不気味に思って、メッセージを送信した。
「なんかいるもんある? おーい。」
五分待っても返事がない。頭を掻き晩飯を探すことにしたが、食欲がないらしい。惣菜パンを手にしカゴに入れるが、見るだけで吐き気がこみ上げ、唇を固く結んだ。菓子パンコーナーで座り込み、周囲を見回すと、コンビニスイーツコーナーに「うさぎ杏仁」という名前の商品が陳列されていることに気がついた。乳白色の杏仁からぴょこんと出た二本の耳。かなりかわいらしい見た目だ。
手を伸ばし、カゴに入れると、新はゆっくりと立ち上がり会計へ向かった。
なんとか吐かずに帰宅した彼だったが、リビングにたどり着く前にトイレで戻してしまった。だがなにも入っていない胃から出るのは胃液と少量のガソリンだけだった。しばらくすると、異変を感じ取ったのか蒼介がトイレへ駆けつけた。
「あ、新ちゃん⁉」
浅く前屈みになると肺に気化したガソリンが吸収される。蒼介はそれを知ってか知らずか、新の背中を押して深く便器に顔を突っ込ませた。痙攣する体。視界は歪み、体を支える手は大きく震えていた。
落ち着く頃には帰宅から一時間が経過していた。ソファーに寝かされた新は、改めて蒼介の顔を見て驚き、「その顔どうした?」と口にした。
「んん、ちょっと転んだだけ。」
「嘘つけ。」
ちょっとどころではない。頬は大きく擦り剥き、赤紫に変色し、鼻は腫れ鼻血がこびりついているように見えた。濡れた黒髪も乱れているように見える。
「まさか『レインコート男』が? お前、今日も探しに行ったろ。」
「ち、違うよ。」
「……とりあえず、救急箱持ってこい。」
キッチンへ行き収納から救急箱を取り出す蒼介。新は箱を受け取ると、中から消毒液を取り出しティッシュに染み込ませた。傷口に当てると、「痛いよお。」と蒼介が音を上げる。構わずガーゼとテープで傷口を覆う新。ガーゼだらけの彼の顔を見て、「んひひ。ぶっさ。」と口角を上げた。
手当てを済ませ、新は起こしていた体をソファーに再び預けた。案外寝心地がいいのか、微睡の中に落ちていく。
「しんどいから、風呂明日にする。あ、もうここで寝るわ。蒼介、俺のベッド使っていーよ。」
「……うん。」
「……蒼介?」
視線を下げると、ソファーのそばでしゃがみ、動かないでいる蒼介の姿が目に入った。
「……お前も調子悪いのか? あー……、猫じゃないけど、うさぎの杏仁買ったんだった。玄関に置きっぱだけど……、冷やして食べて。」
「……うん。」
「…………?」
「ねえ、新ちゃん。」
「うん。」
「もし、」
いつものたとえ話だと思った。だが蒼介は続きを口にしない。ようやく口を開いたかと思えば、「やっぱ、なんでもない。」と膝に顔を埋めた。
「なんだよ、それ。」
「ううん、いいんだ。」
「……あ、そ。」
ふとテレビに視線をやる。台風は明日銀星街を直撃するらしい。すでに横殴りの雨と強風で周囲の街は避難区域に入っていた。避難の覚悟をした方がいいかも知れない。新はスマートフォンを片手に眠りに落ちた。
(つづく)
▼渡邊璃生『愛の言い換え』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321904000345/