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試し読み

「吐いちゃ駄目だよー。ガソリンは環境に悪いからね」/渡邊璃生のデビュー小説『愛の言い換え』傑作3篇を全ページ試し読み!#26

元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売になりました! その中から選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。

>>前話を読む

 ◆ ◆ ◆

「明日、仕事休みになんねえかな。」
「ねえ。」
「ならないんだよなあ、これが。」
 これを最後に、新は言葉を失った。喉の奥がきゅう、と締まる感覚。顔からは血の気が引き、口内は唾液で満たされた。食事を終える前に吐き気に見舞われることがなかったのだろう、スプーンを乱暴にテーブルに置くと、トイレに駆け込み激しい嘔吐。喉が焼けひたすらに喘ぎ、ガソリンを便器内にぶちまけた。琥珀色で満たされたそこは揮発油臭を放ち、新の脳を圧迫する。
「新ちゃん、新ちゃん。」
 蒼介が駆け寄り、新の背中を撫でる。彼は拒むことなく、汗で額に張り付いた髪を払って、浅く速い呼吸を整えた。便器から離れることができない。
 落ち着いたのは十分と少し経った頃だった。くらくらと酸素不足の脳で、しかし笑顔を浮かべる。心配させまいとそうしているわけではない。ただの癖なのだろう。
「んはは。もう手突っ込まなくても吐けるわ。」
 それを目にし、蒼介はなにかを口にしかけたが、唇の端を結んで飲み込んだ。
「……水持ってくるね。」
「あー……、いいよ。もう風呂入る。んで、すぐ寝るわ。疲れたあ。」
 重い体を引きずるようにして、新は脱衣所に入った。扉を閉めると、蒼介が手を差し込んで制止する。視線がぶつかり、新は頭に疑問符を浮かべた。
「なんだよ。忘れもんか?」
「……ごめんね。」
 それを聞いて、新は目を丸くした。蒼介がおふざけを含まない謝罪をすることは滅多にない。
「? シャンプーか? ……もういいって。」
 新は丸い目のまま返した。浴室の戸を開けると、ユニットバスにシャンプーの空き袋が放置されている。普段なら怒るところだが、珍しい言葉を聞いて機嫌が良くなり笑顔を浮かべ、
「これ、捨ーてとーいて。」
 と蒼介の手を取り、袋を持たせた。彼は「うん。」と小さく返し、沈んだ表情のまま脱衣所を出た。

 新が風呂から上がると、蒼介はソファーに腰掛け、ドライヤーの準備を終えていた。頭に乗せたバスタオルを肩に下ろし、蒼介の開かれた足にすっぽり収まると、彼は新の髪に温風を当て始めた。心地よさで目を閉じる新に、蒼介が問う。
「ねえ、新ちゃん。もし大切な人が大ピンチだったらどうする?」
「なんだよ、それ。大ピンチってどのくらい。」
「余命三ヶ月とか?」
「えー。人によるなあ。恋人だったらあ、やり切れなかったこと全部やるよ。」
 そう言いつつも、新に恋人などいない。同居中の元野良猫はいるが、彼は「大切な人」と呼ぶには距離が近過ぎるだろう。そこにロマンはないし、特別な感情もなかった。
「(あーあ、こんなたとえ話に本気になるなんて、疲れてるんだな。)」

 翌日、C・エレメント社。新は今日もガソリンを飲む。今朝は雨が降っていたこともあってか頭痛がいつもより酷い。何度も噎せ、ガソリンを止めた。荒い呼吸を整えながら蛇口を咥える。だがもうひと息だ。今日さえ終われば、明日は休日だった。
 舌は完全に感覚を失い、ただただ鼻腔を刺す臭いと喉の痛みだけを享受する。呼吸するたびに脳がガソリン漬けにされる気分だった。体が震えてくる。ぼたぼたと顎を伝うガソリン。このままでは減給されかねない。再びバルブを捻って口元を拭う。吐き気を抑え込むのに必死で業務を再開できない。
 ただただ蛇口を舐めていると、上司がやって来て肩を叩いた。彼も元々はガソリンを飲み続け、昇進をつかみ取った人間だ。喉が「ひゅ、」と鳴る。頼めば休憩させてくれるかも知れない。
「あの、吐きそうです……。」
 揺らぐ視界の中、上司を見上げる。
「吐いちゃ駄目だよー。ガソリンは環境に悪いからね。」
「……っオェ。……わかりました。」
 返事を受け、上司は新の髪を掴み、蛇口を唇に押し付けた。たまらず口を開き受け入れる新。上顎がじわりと痛む。

(つづく)



渡邊璃生『愛の言い換え』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321904000345/


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