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試し読み

古田徹也先生、第41回サントリー学芸賞受賞記念! ウィトゲンシュタイン試し読み【特別編】

 このたび、古田徹也先生が『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)で第41回サントリー学芸賞〈思想・歴史部門〉を受賞されました。古田先生、本当におめでとうございます!

 受賞を記念して、古田先生の角川選書『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』より、受賞作品と関連する箇所を特別試し読み公開します。



 『言葉の魂の哲学』第2章 第1節は、前期ウィトゲンシュタインの言語観についての言及からはじまります。その箇所に関連する、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』のなかの解説(§5の一部)をご紹介していきます。
____________________

§5 像と写像形式――二・一~二・二節

【抜粋】
 二・一 我々は事実の像をこしらえる。
 二・一一 像とは、論理空間における状況を――すなわち、諸事態の成立・不成立を――表現するものである。
 二・一二 像は、現実に対する模型である。
 二・一三 像において、像の要素が対象に対応する。
 二・一三一 像において、像の要素が対象の代わりとなる。
 二・一四 像は、その諸要素が特定の仕方で互いに関係するところに成り立つ。
 二・一四一 像はひとつの事実である。
 二・一五 像の諸要素が特定の仕方で互いに関係していることは、物がそれと同じ仕方で互いに関係していることを表す。
 像の諸要素のこのような結合を構造と呼び、その構造の可能性を、像の写像形式と呼ぶ。
 ……
 二・一六 ひとつの事実がひとつの像となるためには、写像されることと何かを共有しているのでなければならない。
 二・一六一 そもそも、ある事実が他の事実の像であるためには、像と写像されることとの間で何かが同じでなければならない。
 二・一七 およそ像が現実を――正しく、あるいは誤って――写し取ることができるために、像が現実と共有していないければならないもの、それが写像形式である。
 二・一七一 像は、それと形式を共有するすべての現実を写し取ることができる。……
 二・一七二 しかし、像は自分自身の写像形式を写し取ることはできない。像は自身の写像形式を示している。
 ……
 二・一八 およそ像が現実を――正しく、あるいは誤って――写し取ることができるために、どのような形式の像であっても現実と共有していなければならないもの、それが論理形式、すなわち現実の形式である。
 《以下の節は、今回の試し読みでは省略》

【解説】
我々は像=現実の模型を用いて事態を表現する
 本書で繰り返し強調していることだが、『論考』は出だしから前半にかけての箇所が最もとっつきにくく、難解である。そのため、ここまでの内容を理解できていれば、この書物を読むという登山の、おおよそ三合目あたりまではもう到達している。ここまでなかなか険しい道のりだったと思うが、その分、実はだいぶ距離を稼げているので安心してほしい。息を整えて、引き続き先に進むことにしよう。
 この§5で紹介する二・一節以降、ウィトゲンシュタインは「像」なるものについて語り始める。「像」とはいったい何だろうか。それを理解するためには、成立していない事態――つまり、虚構――はいかにしてそれとして輪郭づけられるのか、ということを詰めて考えなければならない。
 論理空間のなかで、ある対象の配列の仕方が事実となったり、また、ある対象の配列の仕方が虚構となったりする。では、ある対象の配列の仕方が虚構である、とはそもそもどういうことだろうか。たとえば、「机の上にペンがある」という事態が虚構であるためには、この対象の配列の仕方自体がいま実際に生じていてはいけない。もし生じていたら、「机の上にペンがある」という事態は事実であることになってしまうからだ。これは馬鹿馬鹿しいほど当たり前の話だが、しかし、極めて重要な理屈だ。
 実際の対象(物)を配列してしまっては、虚構の事態をそれとして輪郭づけることはできない。それゆえ、我々は対象の代理となるものを使ってをこしらえるのだと、ウィトゲンシュタインは指摘する(二・一節)。ここで言われる「像」とは、文字通りの「現実の模型」(二・一二節)のことである。我々は、たとえば鉄道模型や駅や木々などの模型を組み立て、特定の仕方で配列することによって、実際には存在しない駅や街並みを電車が走る事態を描き出すことがある。あるいは、汎用性のより高いレゴブロックなども組み合わせることで、その街を巨大怪獣が襲ったり、ロボットが怪獣に立ち向かったりする事態を表現することもある。そしてもちろん、いま実際に起きている事態をジオラマ模型などで表現することもある。
 つまり、我々は現実の模型である像をこしらえることによってはじめて、成立していない事態や成立している事態を――つまり、現実を――それとして輪郭づけることができるのである。

命題という、最も強力な像
 そして我々は、鉄道模型やレゴブロックなどとは比較にならないほど強力な像(=現実の模型)を、日々の生活のなかで常用している。それは、命題である。「命題」とは何かについて、ウィトゲンシュタイン自身は後の節で主題的に語っているが、『論考』全体の理解にかかわることなので、ここで先取りして説明しておこう。彼の言う「命題」とは、我々の言語表現のうち、まさに「机の上にペンがある」とか「街を怪獣が襲っている」といった事態――真または偽でありうること――を表現する記号の配列の仕方のことである。我々は、音声を発したり、あるいは文字を書いたりすることによって、無数の記号(音声、文字)を様々な仕方で組み合わせ、それを通じて無数の命題をこしらえることができる。日本語やドイツ語など、何らかの言語を習得さえしていれば、鉄道模型やレゴブロックのようにかさばる物をたくさん袋に入れて持ち運ぶ必要はないし、それらを用いるよりも遙かに複雑な事態を自在に描き出すことができるのである。
 今後、ウィトゲンシュタインが「像」と言う場合に基本的に念頭に置いているのは、我々が日常言語において語りうる命題のことだと理解して構わない。ただ、彼にとって命題(音声ないし文字の記号の配列の仕方)というものが、特定の仕方で配列されたジオラマやレゴブロックといった現実の模型と、本質的には変わりのないものであるという点も、同時に留意しておいてほしい。

像はひとつの事実である
 それから、そうした種々の像が、まさに模型という一個の対象(あるいは対象の集合)として捉えうるのと同時に、諸対象(諸々の鉄道模型、レゴブロック、音声、文字、等々)が空間内で特定の仕方で配置され、関係し合っていることそれ自体である、という点も重要である。つまり像とは、対象である以前に、諸対象の結合の仕方なのであり、その意味で、「像はひとつの事実」(二・一四一節)なのである。
 そうすると、像を構成する諸対象――これをウィトゲンシュタインは、特に像の諸要素と呼んでいる(二・一三節)――は、像が構成される以前からそれ自体として独立に存在するわけではない、ということになる。すでに見たように(§2)、対象がまずあって、その後にそれらが結合して事実(および虚構)が構成されるのではない。対象は事実ありきで、事実から分節化される。それゆえ、像という事実を構成する諸要素も、像ありきで、像から分節化されるのである。

「写像」という表現関係=「像が現実を写し取る」という関係
 命題という像。ジオラマ模型という像。像には様々な種類があるが、いずれにせよそれらは、自身とは異なる何かを表現している。そして、これが肝心な点なのだが、ウィトゲンシュタインがそのように「像」と呼ぶものは、繰り返すように、現実の模型を表す概念だということである。
 我々が日常で「模型」と呼ぶものは、必ずしも現実の模型とは限らない。たとえば、新幹線の鉄道模型それ自体は、新幹線という物の模型ではあるが、現実の模型ではない。言い換えれば、新幹線という物を表現しているが、新幹線が特定の駅に停車している事態や、特定の街並みを走っている事態などを表現してはいない。
 他方、命題をはじめとする像は、必然的に、特定の事態を表現する模型である。この、像と事態の表現関係を表すために、ウィトゲンシュタインは特に、写像という用語や、像が現実を写し取るといった言い方を導入している。すなわち、「像とは、論理空間における状況〔=事態〕を――すなわち、諸事態の成立・不成立〔=現実〕を――表現するもの」(二・一一節)であるが、彼はこの表現関係を、「像が現実を――正しく、あるいは誤って――写し取る」(二・一七)という言い方で表すのである。
 たとえば、「私の机の上にハリネズミがいる」という命題(あるいは、私のミニチュアの前に置かれた机のミニチュアの上に、ハリネズミのミニチュアが置かれたジオラマ模型、等)は、いま私の机の上にはハリネズミはいないという現実を誤って写し取っている。そして、そのようにして、私の机の上にハリネズミがいるという成立していない事態を表現している(描き出している)、ということである。

像とそれが写し取る現実は、写像形式を共有している
 像は現実を写し取る模型である。そして、「像において、像の要素が対象に対応する」(二・一三節)。すなわち、像を構成する諸要素は、現実(その像が写し取る事態)を構成する諸対象に対応する。
 では、像の要素(像という事実を構成する対象)が、事態を構成する対象に対応する、とは具体的にどういうことだろうか。非常に精巧につくられたアヒルの模型なら、アヒルという本物の対象に対応しているということがすぐに分かるだろう。しかし、これは、いま問題にしている「対応」という事柄にとって全く本質的なことではない。なぜなら、像の要素はそうした写実的な物だけではなく、レゴブロックのパーツや漢字、片仮名、アルファベットなど、実に多様なものでありうるからだ。たとえば、「アヒル」や「duck」という要素(インクの染み)は、本物のアヒルと似ても似つかない。では、これらの要素がアヒルに対応するというのは、いったいどういうこととして説明できるのだろうか。
 たとえば、いま実際に新幹線が東京駅に停車しているとしよう。このとき、「新幹線が東京駅に停車している」という像を構成する「新幹線」という要素(インクの染み)は、本物の新幹線という対象とは似ても似つかない。しかし、この要素は、この像以外の無数の像のなかに現れるすべての可能性を含んでいる。すなわち、「新幹線が線路上を走っている」、「新幹線の駅が富士山頂に建設されている」等々の命題である。そしてこの可能性は、本物の新幹線という対象が論理空間内の他の様々な事態のなかに現れるすべての可能性――先に§3で跡づけた言い方を用いるなら、新幹線という対象を含む事態の構造の可能性――と一致している。そして、これこそが、像の要素が事態の要素に対応している、ということの内実なのである。
 そして、これも§3ですでに見たように、事態の構造の可能性を、ウィトゲンシュタインは「形式」とも呼んでいる。そうすると、像の要素「新幹線」は、本物の新幹線という対象と同じ形式を備えていることになるし、さらに、すべての要素の形式を合わせたもの(つまり、我々がこしらえうる像の可能性すべて)は、すべての対象の形式を合わせたもの(世界がいかにありうるかの可能性すべて、つまり論理空間)に一致することになる。そして、これこそが、およそ像が像として事態を表現していること内実にほかならない。それゆえにウィトゲンシュタインは、像の要素と事態の要素(=対象)との間で一致する形式を、特に「像の写像形式」(二・一五節)という名称で呼ぶのである。

《以下省略》
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 前期ウィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考』を懇切丁寧に解説した〈角川選書 シリーズ世界の思想〉『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』。
 サントリー学芸賞を受賞した『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)の第2章は、後期ウィトゲンシュタインの方の哲学を題材にしていますが、彼自身が後年次のように語っています。自分の新しい思想は、自分のかつての思想〔=『論理哲学論考』の思想〕との対比によってのみ、またその背景の下でのみ、正当な光が当てられるのではないか(『哲学探究』序文)と。
 実際、『論理哲学論考』の内容を理解すれば、『言葉の魂の哲学』第2章の狙いや内容を、より深く理解できるようになるでしょう。『言葉の魂の哲学』とともに、古田先生の『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』を楽しんでいただければ幸いです。

【著者について】
古田徹也 ふるた・てつや
1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て、現職。専攻は、哲学・倫理学。著書に、『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)、『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ/サントリー学芸賞)、『それは私がしたことなのか』(新曜社)ほか。訳書に、ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』(講談社)、共訳書に、『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』(講談社学術文庫)ほか。

書籍のご購入はこちら▶古田徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 (シリーズ世界の思想)』| KADOKAWA


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