2/21(金)発売、伊坂幸太郎さんの文庫最新刊『AX アックス』より、冒頭試し読みを特別公開。『グラスホッパー』『マリアビートル』に連なる<殺し屋シリーズ>の最新作をお楽しみください。
>>前回を読む
◆ ◆ ◆
この診療所には、患者のカルテと、彼が仲介した仕事の資料を偽装したカルテとが混在して、保管されている。情報を隠すのに、カルテは最適だ。個人情報であるから、第三者も簡単には閲覧できない。
働いている看護師のうち、ベテランの、これもまた年齢不詳の女性は明らかに、医師のこの仲介業について把握している様子であったが、ほかの若い看護師たちはおそらく何も知らない。だからなのか、やり取りはたいがい、医療用語に偽装した
兜が仕事を辞めたい、と考えはじめたのは、克巳が生まれた頃からで、実際に医師に話をしたのは五年前だ。医師は驚きもしなければ、歓迎もせず、「そのためにはお金が必要です」と六法全書の記述を読むかのように言った。何に使う金であるのか、どこに入る金であるのかは不明だが、一戸建ての建売住宅が買えるほどの額は、さすがに兜にもすぐに払えるわけがなく、結果的に、「仕事を辞めるために、その仕事で金を稼ぐ」といった不本意な状況を続けざるをえなくなっていた。
「ご存じでしょうが、悪性の手術のほうが、手術代は高いです。それに以前、言っていたじゃないですか。どうせ手術をするにしても、心が痛まないもののほうがいいと」
「そうだな。昔はそんなことを考えなかったけれど」
克巳が幼児の頃に、日本昔話などを読んで聞かせていたことが関係しているのかもしれない。
半ば本気で、兜はそう思っていた。
良いおじいさんは苦労が報われ、悪いおじいさんはひどい目に遭う。善人は最後には勝つ。そういった物語を読み、兜もはじめて、「悪くもない人間が、むやみに殺されることは良くない」と感じるようになった。さらに言えば、自分が殺害する相手にも、父親や母親がいて、こうして日本昔話を読んでやっていたのかもしれない、と思いを
理想と現実は異なることも理解していたが、できるならば、無害な人間を殺害するような事態は避けたかった。
「そうなると必然的に、悪性を手術する仕事になってきますよ」
それは言えている。違法で、物騒な仕事を
「とにかく、他に良い手術があったら、また連絡してくれないか」
「そうですね。ただ、もう少しすると仕事をしにくくなるかもしれませんよ」
「そうなのか?」
医師は手元の白い紙に記号らしきものを書きながら、病状を説明するかのようにし、ぼそぼそと符牒交じりに次のようなことを話した。
この区内で、大きな騒動を起こそうとしている集団がいる。おそらくは爆発物を仕掛ける事件の計画で、どこかに
「こっちの商売上がったり、というわけか」兜が
「いっそのこと、その、爆破事件を起こそうとしている奴らを始末する仕事を引き受けたい」兜は軽口を叩くが医師は笑いもせず、かわりに、「薬は足りていますか」と訊ねてきた。
武器の補充の確認だ。
「少しもらうか」兜は答える。銃弾を補充しておきたかった。業者たちが独自に武器を購入できる店もいくつかあり、たとえば表向きは釣り具店であったり、レンタルビデオ店であったりするのだが、医師が用意してくれるのなら手間は省ける。
医師は、処方箋を作る。
それを持ち、隣の薬局に行けば、カードを渡される。翌日以降に所定のコインロッカーに出向き、そのカードと暗証番号で開けると、求めた武器が受け取れる。
〈この続きは本書でお楽しみください〉
▶伊坂幸太郎『AX アックス』特設サイト(https://promo.kadokawa.co.jp/ax/)