7月12日発売の「小説 野性時代」2018年8月号では、あさのあつこ『薫風ふたたび』の新連載がスタート!
カドブンではこの試し読みを公開いたします。
◎同誌で連載開始! 神永学『怪盗探偵山猫 深紅の虎』はこちらから
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お家を揺るがす大事件から二年、薫風館で学ぶ少年たちはそれぞれの道を歩み始める――。
身分を超えて友情を育む三人の青春。感動の時代小説シリーズ、第二幕!
男は死にかけていた。
一目でわかった。
血塗れなのだ。
血塗れで倒れている。仰向けに転がっている。指先だけがひくひくと動いている。
叫びたいのに声が出ない。
口を開けると、風が流れ込んできた。
腥い。血の臭いが染み付いている。
吐きそうになった。足がよろめいて、そのまましりもちをつく。
死にかけた男と目が合った。
魚の目だと思った。瞬きしない。
いや、魚じゃない、死霊だ。
逃げなくてはいけない。逃げないと死霊にとり殺される。
がさっ。
草が微かな音を立てる。
男が動いた。
うつ伏せになった。
這ってくる。這ってくる。
男の背中が割れていた。血がこびりついて、紅色の芋虫が張り付いているようだ。顔の半分も赤黒く汚れていた。なのに、残り半分は信じられないほど白い。
紅と白。二つに色分けされた顔の中に瞬きしない目が埋め込まれている。
ずるり、ずるり。
近づいてくる。這ってくる。血の筋をつけながら、迫ってくる。
逃げなくては。早く、逃げなくては。
必死でもがく。けれど、腰がたたない。どうしても、立ち上がれない。雑木にしがみつき、歯を食いしばる。
助けて。助けて。
怖い。
眼を閉じ、念仏を唱える。
気配が途絶えた。音が止んだ。
念仏が効いたのか? 死霊は退散したのか?
そっと目を開ける。
男が立っていた。
血に塗れたまま立っていた。
笑ったようだ。
にやりと笑った。
ゆっくりと手を差し出してくる。
ぽたっ。指先から血が滴った。
ぽたっ。血の滴が頬に落ちてくる。
薫風館は、山の中腹にある。
門の前に立てば、青磁色に霞む稜線と蛇行しながら流れる川面の煌きを一望できた。からりと晴れ上がれば、遠く、海も望める。
空と海が溶け合って境目が消える。そこから雲が湧く。
夏のただなか、雲は天に挑むように盛り上がり、地も海も圧するように広がっていく。
地上の虫も負けてはいない。
梅雨が明けたらしく、ここ数日、猛々しいほどの陽光が降り注いでいる。とたん、蝉が鳴き始めた。
薫風館が背負っている山々から、その声は雪崩のように押し寄せてくる。凄まじい喧騒で、重ささえ感じてしまう。
「『資治通鑑』は周の威烈王から五代後周の世宗の顕徳六年まで、百三十主、千三百六十二年間の史実を編年体で記述している。『史記』『漢書』のように断代史、すなわち時代を限った史書と違い、王朝を超えた歴史を見るのには実に便利である。朱子学ではこれに手を加えた『資治通鑑綱目』を読むことによって……」
経書の課業。講じる教授の声が蝉しぐれに呑み込まれていく。
講室の戸は開け放してあるので、風が吹き込み暑気を払ってくれる。吹き込んでくる風は、微かに潮の香りがした。
雨が降るのかもしれない。
潮の香が濃くなるのは、雨の予兆。
誰かに教えてもらった覚えがある。
鳥羽新吾は束の間眼を閉じ、誰かを思い出そうとした。が、無駄だった。誰の顔も浮かんでこない。代わりのように、顎の尖った細面と奥深く光をたたえた双眸が眼裏を過った。声も。
鳥羽さん、行ってまいります。
江戸で能う限りのものを学んできます。
昂ぶりを抑え込んで、普段より低く聞こえる声だった。しかし、紅潮した頬から、眼の底の光から高揚が滲み、零れていた。
栄太。
ここ、薫風館で得た友の名前だ。半年前に学問を修めるために、江戸へと発っていった。
春とは名ばかりの凍えるような朝だった。
石久十万石の城下には珍しく雪が積もり、雪雲の間から時折覗く薄日がさらに寒さを掻き立てていた。
城下の外れまで同行した。
風に舞う雪片の向こうに、合羽姿の背中が消えてしまうのを見送ったのだ。
今は暑い。
あの雪景色は幻だったとしか思えない酷暑だ。それでも、朝夕は凌ぎやすい。風も光もほどよく優しいのだ。
江戸はどうだろう。
涼やかな風など吹くのだろうか。
いやと、思い直す。
栄太のことだから凍えも暑気もものともせず、励んでいるだろう。必死に学んでいるはずだ。薫風館始まって以来の俊才と称えられ、齢十五にして全ての教科を修め、農民の身分でありながら国中の少壮有為の士が集う江戸で学ぶ機会を手に入れた。
薫風館は藩学ではない。郷校になる。石久藩の藩学は別にあり、新吾もかつては通っていた。藩が藩士の子弟のために設けた学問所なので、士分の者しか学べない。比べ、郷校は半官半民であり庶民を広く教育する役目を担っていた。
薫風館の門戸は広い。
学ぶ志さえあれば、身分を問わず受け入れてくれる。ただし、勉学に費やす時と財力を持つ者に限ってだが。
栄太は藩領の北外れにある村の出身だった。村は島崖という名の通り、切り岸を背に広がる荒蕪地の中にある。地味は痩せて、米の取れ高は少ない。村人たちは稗や粟、芋を作り、炭を焼き、山菜を摘みかろうじて暮らしていた。栄太の父は村の名主であったが貧しいことにかわりはなく、息子を薫風館に通わせるために、かなりの無理をしなければならなかった。
「わたしのために、家の者は月に一度は食べられていた白飯を諦めねばならなくなりました」
知り合って間もなく、栄太が言った。新吾にというより自分に言い聞かせているような物言いだった。
「弟や妹に稗を食べさせてでも……わたしは学びたいのです。学んで、学んで、いつかきっと島崖の地を豊かに変えられるように学びたいのです。それが、ひもじさに耐えてくれる家族への、わたしができるたった一つの恩返しなのです」
栄太にとって薫風館での学びは、そのまま使命や明日、さらに未来に繋がっている。その証の一つとして、半年前、栄太は旅立っていった。江戸で町見術を極めるためだ。薫風館の新たな学頭となった山沖彰唹の推挙により、栄太は身分も年齢も超えて藩費での遊学を許された。山沖の尽力もさることながら、本人の知力と志が故の快挙だった。
ため息が出る。
何のために学ぶか。こんなにも真っ直ぐな、明らかな、そして強靭な答えを持つ友が眩しい。誇らしくもある。ほんの僅かだが、羨ましくも妬ましくも感じた。
何のために学ぶか。何のために剣を握るか。何のために心身を鍛えるか。何のために生きるか……。
新吾には答えの返せない問いばかりだ。
潮の香を含んだ風がまた、吹き過ぎていく。首筋や額の汗が拭い去られて、心地よい。
手のひらで首筋を撫でたとき、講釈が止まっていることに気が付いた。教授の声が止んでいる。
しまった。
心が講義に向いていなかった。あらぬ方を彷徨い、取り留めない思案に耽ってしまった。
薫風館の教授陣は、総じて誰もが厳しい。真摯に学問に、あるいは武術に向かい合わない者を許さない。怒鳴られる、室から追い出されるぐらいならまだしも、足蹴にされることも、鞭で打たれることも珍しくはなかった。それでも、学生自らが退館を申し出ない限り、志学の道を閉ざされることはめったにない。
学ぼうとする志を決して疎かにしない。支え、育み、伸ばしていく。それが薫風館の気風であり、是であった。
新吾は身を縮め、そろりと顔を上げた。
経書方教授の佐江祐介は学頭に就任した山沖に代わり、新たに赴任してきた。まだ二十歳ながら江戸は昌平坂学問所で経学を修め、俊英の誉れは高い。
小柄で色白、優男と称しても差し支えない姿形であり、気質も見場に準じて温厚であり、淳良であった。ただし、他の教授同様に講義の場においては厳格で折り合うということがない。
これは、かなりやられるな。
相当の叱咤を覚悟してさらに顔を上げる。
佐江は新吾を見ていなかった。
新吾の隣の列、一席前に立っている。竹鞭を手に見下ろしている視線の先では、一人の学生が膝に手を載せたままうなだれていた。格子縞の単を身につけている。ひときわ目立つほどの偉躯だった。
講室には三十人ばかりの学生がいる。すでに初等の教育を終え、和学、漢学、筆道と武道に明け暮れる日々を送っていた。
佐江が深く息を吐く。
学生がうなだれているのは意気消沈しているからではなかった。
寝息が……聞こえる。
実に心地よさそうに響いてくる。いや、よさそうにではなく、本当に心地よく寝入っているのだ。
弘太郎、おい、弘太郎。
胸の内で必死に呼びかけるが、むろん、聞こえるはずもなく寝息は続いていた。
間宮弘太郎もまた、薫風館で出逢った友だった。
代々普請方を務める間宮家は、三十石足らずの軽輩だ。栄太の家ほどではないにしても、楽な暮らしはしていない。息子を薫風館に通わせるのも苦労だろうとは容易に推し量れる。ただ、弘太郎には、栄太ほど悲壮な決意はない。家族の苦労を慮りはするし、恩も十分に感じてはいるが、だからといって、そこに応えようと自分を追い込んだりしないのだ。
磊落で屈託がなく、たいていのことは小事と笑い飛ばしてしまう。それが、間宮弘太郎という男だった。
栄太の深い思慮と弘太郎の笑い声に、どれほど助けられ、励まされ、支えられてきたか。藩学を退き、学び舎を薫風館に替える。
あの決断が正しかったと心底から思えるのは、栄太と弘太郎のおかげだった。
誰とどこで巡り合うか。
神のみぞ知る定めだと感じる。藩学で陰湿に苛まれた傷は、薫風館で存分に癒された。ありがたいと何度も頭を下げる。胸の内でだけだが。面と向かってそんなことをしたら、栄太は気恥ずかしげに俯き居たたまれないような眼つきになるだろうし、弘太郎は露骨に顔を顰めるだろう。肌身に染みてわかっているから、黙っている。ほんとうは、栄太が石久を発つ前に告げたかった。
栄太、がんばれ。そして、恩に着るぞ。おまえと弘太郎に出逢って、おれはどれだけ救われたか。ろくに礼も言わぬままだったが、感謝している。
言葉で伝えようか、文を書こうかと前夜まで悩んだけれど、結局止めにした。ただ「がんばれ」としか言わなかった。胸内の想いをさらけだしてしまえば、今生の別れになるようで躊躇われたのだ。
ふうっ。
佐江がもう一度、息を吐いた。鞭を握った右手を持ち上げる。しなる鞭の一打は応える。首筋を打たれたら、一瞬、息が詰まるほどだ。新吾はとっさに身を乗り出し、呼んでいた。
「おい、弘太郎」
それと同時に、弘太郎が叫んだ。
「暫し、待て」
え? 起きているのか。それとも寝惚けているのか、先生に「待て」と命じるなんて正気の沙汰か。鞭打ち一回ではすまなくなるぞ。
新吾は我慢できず、弘太郎の袖を引いた。佐江も鞭を振り上げたまま、手を止めている。
「そこはやはり、止めておいた方がいい」
はっきりと弘太郎が言い切る。
「……何を止めておくのだ、間宮」
佐江が腕を下ろしながら、問うた。
「無茶をすれば、後々、つけが回ってくる。よく考えろ、新吾」
え、おれか?
「おれがいつ、どんな無茶をしたって? おまえ、いったい何の話をしているんだ」
答えはない。代わりのように寝息の音が大きくなった。すひーっ、すひーっと間延びした、長閑と言えば長閑な息音が響く。
まさか、寝言?
くふっ。佐江が噴き出した。必死に堪えようとしたのだが、耐えきれなかったらしい。身体を折って笑い出す。学生たちもどっと笑い声をあげた。さっきまで私語は一つもなく、佐江の講釈と風の微かな音を除けば、静まり返っていた室内が、若い笑いでさざめき揺れる。ややあって、佐江が軽く咳払いをした。それだけで、潮が引くように、ざわめきが落ち着いていく。
「まったく……どうしようもないな。ここまで、堂々とやられると叱る気力もなくなる。暫く寝させておくか。なあ、鳥羽」
「は? あ……はあ、はい。先生がよろしければ、わたしに異存はございませんが」
「そうか、では、間宮の代わりに答えてもらおうか」
「え?」
「本来なら喝を入れる意味で間宮に答えさせるところだが、あの調子では起こしてもろくに答えられんだろう。おまえが、代人となれ。口頭試問だ。まずは、『資治通鑑綱目』について知っているところを全て述べよ」
「ええっ」
「馬鹿者、ここで驚いていて何とするか」
「し、しかし、先生。弘太郎……間宮の代わりにわたしが答える謂れはないように思いますが」
「大いにあるとも。おまえは、夢の中に出てくるほど間宮とは親しいのだからな」
「それはこじつけに近いのではありませんか」
「鳥羽」
「はい」
「往生際が悪い。武士ならば潔さを尊べ」
「はあ……」
立ち上がる。こうなったら、じたばたしてもしかたない。
すひーっ。すひーっ。
弘太郎の間延びした長閑な寝息は、乱れることも小さくなることもなく続いていた。
(このつづきは「小説 野性時代」2018年8月号でお楽しみいただけます。)
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