「夕方に鳴くのは〈からす〉か〈かえる〉か?」「〈おにぎり〉と〈おむすび〉はどちらが古い言い方?」など、日々の暮らしにまつわる豊富な話題から、古典文学の味わい方を解き明かす、『暮らしの古典歳時記』。
そのなかから、「蜘蛛の文学史」を全文公開します!
蜘蛛の文学史
質問です。みなさんは蜘蛛を昆虫だと思っていませんか。でも足の本数が違いますよね。普通、昆虫の足は六本ですが、蜘蛛は八本ですから節足動物の仲間です。さすがに昔の人はちゃんと足の数に目を付けていたようで、『伊勢物語』九段では、
そこを八橋といひけるは、水ゆく川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。
と「蜘蛛手(八本)」の例が出ています。夏目漱石の『倫敦塔』にも「この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も」云々とあります。
面白いことに、古代の人は蜘蛛のことを、同じく八本足の蟹と同類と見たのか、「ささ蟹」とも称していました。この場合の「ささ」は「笹」でも「細」でもなく「泥」蟹の意味とされています。そこから謡曲の「土蜘蛛」へとつながるわけです。見た目も決して美しくない「蜘蛛」ですが、和歌には『日本書紀』から詠まれています。その同じ歌が『古今集』墨滅歌にも、
我が背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛の振る舞ひかねてしるしも(一一一〇番)
と出ていました。この場合の「ささがにの」は「蜘蛛」にかかる枕詞になっています。この歌には、「衣通姫のひとりゐて帝をこひ奉りて」という詞書が付いています。衣通姫は愛する允恭天皇のお越しを、夕方の蜘蛛の巣作りによって察知(期待)したわけです。これは、蜘蛛の巣作りは待ち人が来る前兆とする中国由来の俗信から生じたものです。ただし和歌における用例を見ると、必ずしも待ち人が訪れるのではなく、逆に来ない男を待ち続けるパターンが多いようです。
また蜘蛛は、糸を出すことでも知られています。そして「蜘蛛の糸」といえば、芥川龍之介の短編が有名ですね。その「蜘蛛の糸」には、日本の古典ではなく外国文学に出典がありました。ご存じでしたか。芥川の作品は一九一八年に「赤い鳥」に発表されました。それ以前の成立ということで探すと、ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』(一八八〇年)に収められている「一本の葱」、ポール・ケーラス著『カルマ』(一八九四年)にある「The Spider-web」、セルマ・ラーゲルレーヴ著『キリスト伝説集』(一九〇五年)所収の「わが主とペトロ聖者」の三つが浮上します。
中でもアメリカの宗教学者であるポール・ケーラスが書いた『カルマ(因縁)』は、鈴木大拙によって翻訳され、一八九八年に『因果の小車』というタイトルで出版されています。「The Spider-web」はそのまま「蜘蛛の糸」と訳されているし、登場人物のカンダタまで一致しているのですから、芥川の出典は鈴木大拙が翻訳した『因果の小車』でよさそうです。もともと芥川は古典を素材にして自らの小説に再構築することが多いのですから、「蜘蛛の糸」もそれに近いものだったわけです。
なお「蜘蛛の子を散らすよう」ということわざがありますね。蜘蛛の子は、孵化した後も脱皮するまで卵囊に留まります。それを「団居」と呼んでいます。その後、子蜘蛛たちは分散するわけですが、空中に長く糸を出して、風に乗って遠くまで飛んでいきます。それをバルーニングと称するそうです。東北地方に見られる秋の雪迎えや春の雪送りも、この飛行蜘蛛の糸が正体でした。なんとシェークスピアの「ロミオとジュリエット」や「リア王」にもゴッサマー(飛行蜘蛛)が出てきます。文学と蜘蛛には、かくも深い関わりがあったのです。
▼吉海直人『暮らしの古典歳時記』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322001000002/