試し読み
【試し読み】門井慶喜『シュンスケ!』
門井慶喜さんが『銀河鉄道の父』で第158回直木賞を受賞されました。
直木賞受賞を記念しまして、カドブンでは門井慶喜さんのKADOKAWA作品の試し読みを3日連続で公開いたします。
本日2月9日(金)は『シュンスケ!』を公開いたします。
この機会に「直木賞の原点ともいえる、門井さん初の歴史小説」をぜひお楽しみください。
>>「日本人として生きる」ことを選んだアメリカ人建築家の壮絶な一代記『屋根をかける人』
とびらは、あけっぱなしになっている。
老人は、入口のところで立ちどまり、
「失礼します」
部屋のなかへ声をかけた。
返事はなし。
もういちど、
「失礼します。陛下」
室内は、和洋折衷ふうだった。頭上には檜の欄間がもうけられているが、床には真紅のじゅうたんが敷かれ、洋式のテーブルが置かれている。椅子は、左右それぞれに五脚ずつ。宮中御学問所の公式の部屋は、たいていこんな落ち着きのわるい内装になっている。
陛下とよばれた男性は、公務用の軍服を身につけている。
十脚の椅子のうちの一脚にすわっていたが、ふいに身を起こし、
──伊藤か。
「はい」
老人が身をかがめると、陛下はけだるそうに手をさしあげ、となりの椅子の背をたたいた。ここにすわれという意味だろう。老人は、
「恐れ多いことで」
と肩をすくめつつ、しかし慣れた足どりで部屋に入り、言われたとおりの椅子にすわった。
おそらく桂太郎や西園寺公望、あるいは原敬といったような一まわり下の世代の重臣だったら遠慮して入室をはばかるか、入ったとしても椅子のうしろで立ったまま話をしようとしたところだろう。何しろここにいる陛下とは、名は睦仁、幼称は祐宮、ゆくゆく、
「明治天皇」
と諡されることになる当今なのだから。
けれども伊藤老人にとっては、天皇はむしろ親しみの対象だった。もちろん謹直な畏敬の念もないわけではないけれど、それ以上に、
(この方は、同志じゃ)
という感じのほうが強かったのだ。ふたりはただの君臣ではなかった。御一新以来四十年、それこそまるで夫婦のように近代国家を一から手づくりしてきた仲なのだ。
廃藩置県も、新紙幣の発行も、華族制度の新設も、学校令の制定も、憲法発布も、日清日露の戦争の勝利も……日本の社会そのものを根底から変える重大な革新の場には、つねにふたりの姿があった。いまさら何の遠慮があるだろう。
──伊藤。何の用か。
天皇は、ぐっと老人に顔をちかづけた。
鼻と鼻がふれそうだった。強度の近眼なのだ。老人は身をそらさず、息のあたたかみを顔じゅうで受けつつ、
「はい、陛下。ご報告をひとつ。わたくしは……やはり、行くことにしました」
──どこに?
「ハルピンに」
天皇が、顔をくもらせた。
裏切られた、というような感情のこもる目の色をした。老人は急いで、
「いや、さだめし陛下にはご不満でありましょう。何しろ陛下はかねてからわたくしの満州ゆきをあやぶんで、計画を中止するよう求められていたのですから。ご心配はまことにありがたきことと存じます。がしかし、わが国政府は」
語を継いだ。わが国政府は三か月前、閣議において、韓国(大韓帝国)を併合する方針を正式に決定したところだが、それを実行にうつすにはあらかじめ清国とロシアに日本の立場をきちんと説明しておかなければならない。この両国はそれぞれ韓国に国境を接していて、利害が衝突するからだ。
ところが、そのうちロシアに関しては、絶好の機会が向こうから来た。ウラジミル・ココフツェフという現職の財務大臣がわざわざ満州にまで出張してくるのだという。皇帝ニコライ二世の信頼もきわめて厚い要人中の要人だから、
「会わない手はない、というのが前満鉄(南満州鉄道会社)総裁・後藤新平男(男爵)の意見なのです。わたくしもそう思う。ぜひともココフツェフ氏と会って話をして、日本の姿勢を理解してもらわねばならんのです。なるほど満州の治安はよくない。住民の対日感情もいよいよ悪化しつつある。わたくしの旅もまったく安全というわけにはまいらぬかもしれません。しかし陛下、わたくしはむしろ、その故にこそ行かねばならぬと存じます」
老人はやさしい口調で、しかし決意ははっきり示すよう言明した。天皇は、
──伊藤、それは。
眉間にしわを寄せた。
(反論なさる)
老人はわずかに身がまえたが、天皇はあっさり肩を落として、
──そうか。
(あわれな)
老人は、この十一歳年下の国家元首が、きゅうに弱々しいものに見えた。
若いころは壮健だった。毎日乗馬をこなしたし、酒にはめっぽう強かったし、女官を上手にからかったりもした。執務中もたとえば掛軸や剣がどこそこの蔵にあるから持って来いと天皇が言うと、官人はかならずそこで該当の品を見つけたという。記憶力もすばらしかったのだ。
が、いまの天皇は、ほとんど往時の盛観をとどめていない。
持病の糖尿病のせいだろうか、体のむくみが激しすぎるし、乗馬どころか散歩もろくにしなくなった。ときおり子供のように感情をむき出しにするのも若いころにはないことだった。老人はこのとき、不吉なことだが、むしろ自分よりも天皇のほうが死期がちかいような気さえしたのだった。天皇も、もう六十の声を聞こうとしている。
老人はぽつんと、
「申し訳ありません」
返事はなし。
天皇はぐったりと椅子の背にもたれ、目を閉じている。その横顔へ、
「失礼します」
老人は立ちあがり、部屋を出た。これ以上そばにいたら涙ぐんでしまいそうだったのだ。
とびらのところでふりかえり、一礼する。
ときどき御前会議もひらかれる広大すぎる部屋のなかで、天皇はひとり、まだ目を閉じている。何も知らない者が見たら、居眠りと思うだろうと老人は思った。
数日後、午後。
老人は、赤坂霊南坂の官邸にいる。
晩には桂太郎首相の主催する晩餐会へ出かけるつもりだが、しかしまだ盛装には着がえていない。ふだんの背広を身につけたまま、書斎の机にむかって小筆をさらさら走らせている。晩餐会では国際新聞協会の会員を相手にスピーチをする予定なので、その草稿づくりをしているのだ。
と、
「やあ。伊藤公」
ひとりの男が、ずかずかと書斎に入ってきた。老人は顔をあげ、ふりかえって、
「おお、山県公か」
「しばらくぶりじゃな」
老人はわざと渋面をつくってみせて、
「これはまた謹厳をもって鳴る山県公にふさわしからぬ盗人同然のなさりよう。勝手に人の家の門をくぐり、わがもの顔でここまで来るとは」
「何を言うか。この家は、ついこの前までわしの家だったんじゃ」
公爵・山県有朋は、よっこらしょと長椅子のまんなかに腰かけると、きょろきょろ室内を見まわして、
「ふん。書斎の調度は変わっとらんようじゃ。だいじにせいよ」
老人は、苦笑いした。なるほど山県有朋は前の枢密院議長であり、したがってこの官邸のあるじだった。しかも在任は三年半の長きにわたったから、その後まだ四か月しか住んでいない老人などよりはるかに勝手を知っている。それにしても、もし四十年以上のつきあいでなかったら、いくら天下にこわいものなしの山県でもこうまで無遠慮なふるまいはしなかっただろう。
山県は杖をからんと肘かけに立てると、あごをあげて、
「ハルピン行きが決まったそうじゃな」
老人は筆を置き、まじめな顔になって、
「ああ」
「気をつけろよ。不穏な分子がうろうろしておる」
「めずらしいな。貴公がわしの身を案じるとは」
「陛下が案じておられるのだ。伊藤はいい年をして危地に向かわぬでもよいではないか、東京にとどまっておればよいではないかと、御座所でさんざんこぼしておられた。しあわせ者じゃのう」
「なーに」
老人は立ちあがり、山県のとなりに腰をおろして、
「心配はいらぬと陛下におつたえしてほしい。満州にいる外国人といえば清国人かロシア人だが、わしはどちらにも嫌われておらぬ」
山県はむぞうさに、
「朝鮮人には?」
「……む」
「ハルピンにも、朝鮮人はたくさんおるぞ」
(勝手なことを)
と、老人はいささか腹が立たぬでもない。もともと老人は韓国併合には反対だったのだ。それを山県たち多数派におしきられ、やむなく閣議決定を了承したという経緯がある。その不本意な閣議決定のあとしまつをしに老人はこれから満州へ行くというのに、当の山県が「気をつけろ」などと言うのは、
(まったく、盗人たけだけしいのう)
とはいえ山県は、こと暴力ざたに関しては独特の嗅覚がある。
若いころから長州藩の奇兵隊という士庶混淆の軍隊をひきいて幕府軍と対決したり、あるいは第一軍司令官として日清戦争の戦場へ向かったりしてきたせいだろう。文治的な政治家である老人にはわからない、血なまぐさい予感のひらめきがあった。老人は、耳をかたむけぬわけにはいかない。
口をつぐんだ。
山県はひょいと長椅子から立ち、
「邪魔したな。伊藤公」
杖を取り、歩きだした。老人はすわったまま、
「待てい」
「何じゃ」
山県は足をとめ、首だけをこっちへ向けた。何じゃと言われても、老人にはべつだん言うことばはない。ただ胸のなかに得体の知れない感情がわきあがってきて、
「……達者で暮らせよ。狂介」
山県は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
狂介というのは山県の旧幕時代の名前だが、御一新以後はほとんど称したことはない。四十年来の友人であり好敵手である老人でさえ、ひょっとしたら山県をこの名前で呼んだのはあのころ以来かもしれなかった。
山県は、いやな顔をした。
「何が『達者で暮らせ』じゃ。今生のわかれでもあるまいし」
「取越し苦労じゃよ、狂介。わしはちゃんと日本にかえってくる」
老人はにっこりしたけれども、山県は疑念が去らなかったらしい。こんなふうに老人をやはり当時の名前で呼んで、書斎をあとにしたのだった。
「また会うぞ。シュンスケ」
周防国束荷村の百姓の子・利助は、百姓の子のくせに、いつも、
「わしは、さむらいじゃあっ」
腰に二本さしこんでいた。
ほんものの刀や脇差ではない。そのへんに落ちている桜か何かの木の枝なのだが、
(百姓は、いやじゃ)
そう思うだけの切実な理由がこの子供にはある。
「なーにが、さむらいじゃ」
と年上の悪童どもにからかわれても、だから利助はとりあわない。しれっとした顔をして、二本ざしのまま柿の木にのぼったり、めじろを獲ったりして遊んでいる。悪童どもは、こんどは、
「利助のひょうたん、青びょうたん。酒を飲んで赤うなれ」
などと囃しはじめたが、これも笑って聞きながした。しかし、
「利助のおやじは夜逃げした。引負(借金)こさえて夜逃げした」
と言われたときは、
「何いっ」
相手の胸ぐらをつかみあげた。利助はなみだを落としながら、
「父は、夜逃げなんかしとらん。萩のご城下へひとりで稼ぎに出とるだけじゃ。ととは、ととは、悪いこと何もしよらん」
「ふん。どうだか」
胸ぐらをつかまれたまま、悪童はにやにやして、
「お役人におさめる年貢米をごっそり勝手に売りとばしたのは誰か。お前のととや。だから村におられんようなったんじゃろ。大人はみんな言うとる。お前のととは、ぬすっとじゃ」
「……ぬすっと」
「お前はつまり、ぬすっとの子なんじゃ」
「さむらいを侮辱するかっ」
利助はいっそう相手の胸をつかむ手に力をこめた。が、相手のほうが年上であり、腕力もある。彼はあっさりと利助の腕をふりはらって、
「なーにが、さむらいじゃ」
利助の胸をどんと突いた。利助はかんたんに尻もちをついて、足で天をさしてしまう。が、すぐに立ちあがり、なみだを手の甲でぐいっと拭って、
「果たし合いじゃ。受けて立て。あしたの夕方、野良仕事が終わったら、氏神様の鳥居に来るんじゃ」
「ふん。返り討ちじゃ」
この悪童、名を辰次という。まだ十歳ながら、村ではもう「うなり辰」などと呼ばれて大人すら手を焼くほどのあらまし(乱暴者)だった。いっぽう利助は七歳そこそこ。体格の差は、虎と猫。
(斬ってやる)
猫はそう心を燃やし、辰次の顔をにらみあげている。
翌日、夕刻。
鳥居の下で辰次がざらざらと腕を撫しつつ仁王立ちしているところへ、
「ありゃりゃりゃあああ」
奇声を発しつつ、横から利助はいきなり殴りかかった。顔をねらったつもりだったが、辰次はおどろかず、ひょいと身をかがめる。利助のこぶしは空を切り、はずみで利助はたたらをふんだ。しかし二、三歩でふみとどまると、足もとの土をつかんで、ふりかえりざま、
「食らえっ」
辰次の目に投げつけた。これも不発だった。辰次はとっさに両手で目を覆ったのだ。と思うと、たかだかと跳躍して利助の前に立ち、おもいっきり利助の頰桁を張った。
「あっ」
利助はきりもみ状に回転しつつ、はるか一間もふっとんで、あおむけに落ちた。鼻の奥が血でにおった。
そこへ辰次がおどりかかる。グルルルと狂犬みたいなうなり声をあげながら両手のこぶしをふりおろす。利助はごろんと横へころがって避け、すばやく立ちあがると、とつぜん相手に背中を見せた。
あとも見ず、駆けだした。
「逃げるか! ぬすっとの子」
辰次が追いかけてくる。図体のわりに足がはやい。利助はけんめいに駆けた。
神社は、ごく小さい。境内はあっというまに尽きて野原になってしまう。野原はいちめんの枯れ藪だった。利助の背の高さほどもある草や木が、どういう天候の按配か、ことしはみな立ったまま死んで緑をうしなっているのだった。
利助は、とびこんだ。身をまるめ、がさがさと音を立てて進んでいく。
「どこへ行った」
とか、
「隠れるとは卑怯じゃ」
などと呼ばわりつつ、どうやら辰次も突入したらしい。利助はときどき顔を上に出しては位置を確認し、さらに進んだ。がさがさ。がさがさ。あらかじめ考えていたとおりの場所に来たところで、
「だーれが、隠れるか」
しゃがみこんで、ふところから石を二個とりだした。火打ち石だった。
かちっ。
かちっ。
何度かそれを打ち鳴らすと、うすぐらい闇のなかに火花が浮かび、八方へ散った。そのうちのひとつが蛍のように明滅しつつ、枯れ葉の先にちょこんと乗っかる。
あかるさを増し、炎になる。炎はみるみる大きくなり、利助の顔ほどになった。新茶のような香ばしさが立った。
季節は、冬。
ここ一か月くらいは雨もふらず、雪もふらず、空気はかわききっている。火はあっというまに燃えひろがった。ひろがる方向は東の山のほう、つまり神社とは反対のほうだった。枯れ藪という可燃物の海のなかで、炎はごうごうと巨大化していく。
この異変には、もちろん辰次もすぐに気づいた。
火の向きとは逆のほうへ逃げ出した。当然、枯れ藪からおどり出たとき、彼はふたたび神社の境内に足をふみいれることになる。その正面に利助が立っている。
「あっ」
と、辰次はさけんだ。両手を合わせて利助をおがんで、
「悪かった。もうお前のととを腐したりせん」
「そのことが悪いのとちがう」
熱風がふきあれ、ふたりの着物をはためかせている。利助は例の刀をすらっと抜いて、上段にふりかぶり、
「わしは、さむらいじゃ。さむらいを侮辱したのが悪いんじゃあ!」
桜の木の棒はしたたか辰次のひたいを打った。辰次は手を合わせたまま、うしろへ木像のようにたおれた。激しい地ひびきが立ち、楠から椋鳥がいっせいに飛び立った。
空は、すっかり暗くなっている。
枯れ野の炎はうずを巻いて天にのぼり、一番星をも溶かしている。
どこかから鐘の音が聞こえる。ごんごん乱れ打ちに打たれている。誰かが村中に警報を発しているのだろう。
その晩。
利助の住む家に、大人どもが押しかけてきた。
全員、顔を煤でよごし、着物のあちこちを焦がしている。手には草刈り鎌やら、手桶やら、むやみと柄の長いひしゃくやらを提げていた。土間はせまく、四、五人も入ればあふれてしまうため、男たちは家の外からも怒りにみちた罵声をあげることになる。
利助の母、名前はこと。
土間に降り、ひたいを土間にこすりつけて、
「すまんことした。うちの利助が、ほんまに相すまんことをした」
洟をすすりながら繰り返したが、その程度では相手のほうも気がおさまらない。めいめい勝手に、
「何ちゅうことをしてくれたんじゃ、お前の息子は」
「あんな大火は見たことがない」
「わしら命がけじゃった。火のまわりの草を刈ったり、小屋をぶっこわしたり」
「たまたま風むきが変わったからよかったものの」
「そうじゃ。そうじゃ」
「あのまま東風が吹きまくっとったら、村中が灰になるところじゃった」
誇張ではなかった。この束荷村には、事実、山すそに建つ家が多いのだ。もしも火があのまま東の山に達していたら、山づたいに家を焼き、納屋を焼き、土蔵を焼き、どういう罪もない女子供をじゅうじゅう焼いたことはまちがいなかった。利助はこのとき、年貢米に手をつけるよりもはるかに重大な罪をおかしたことになる。
しかし利助は、反省するどころか、
(けっ、見ぐるしい。大の大人がおろおろしおって。これだから百姓はいやなんじゃ)
と、母親が、とつぜん利助の頭を手でつかんで押しさげ、
「お前も、ほら、みんなに謝らんか」
利助はしかたなく膝を折って、
「……すまんかった」
ようやく村人がみんな帰ってしまうと、ことの父の長左衛門が、土間にへたりこんだまま、
「えらいことをしでかしたのう、利助」
呆然とつぶやいた。長左衛門も老軀を折り、いっしょに土間で平蜘蛛になっていたのだ。ことは、
「すまんのう。父さま」
長左衛門へ頭を垂れた。娘というより、下女がご機嫌をうかがうしぐさだった。それでなくても夫が──利助の父が──二十里もはなれた萩の城下へ旅立って以来、もう一年ちかくもこの実家に厄介になっているのだ。食うだけでも大きな面倒をかけている。
(かか、よっぽど肩身がせまいんか)
さすがに利助も申し訳なくなった。うつむいたまま、ぽつぽつ申しひらきをした。
「辰次のほうが体もでかい。腕もふとい。ああした工夫もせなんだら、わしぁとても……」
「そこまでして勝つ必要があるか」
と母が叱り、長左衛門が存外やさしく、
「まあ、男の子には、あることじゃ」
しわだらけの黒い手で利助の前髪をなでたとき、
「ごめん」
ほたほたと入口の戸をたたく者がある。
三人は顔を見あわせ、ため息をついた。またぞろ村の誰かが文句をつけに来たのにちがいない。しぶしぶ母が立ちあがり、戸をすべらせると、
「失礼する」
入ってきたのは、若い武士だった。紋付の羽織を身にまとい、腰にほんものの大小をさしている。蠟色の鞘がつやつやと目に痛い。
(さむらいじゃ)
利助は、思わず立ちあがった。ざわざわと全身の肌に粟ができた。われながら何という滑稽なことだろう、ほんものの武士を見るのは生まれてはじめてだったのだ。若い武士は、じっと利助を見おろして、
「さむらい気取りの子供とは、そなたか?」
このみじかい言葉だけで人柄がすべて知れるような、折り目ただしい言葉づかいだった。利助はそれを美しいと思ったが、しかし口では、ぶっきらぼうに、
「気取りではない。わしは、さむらいじゃ」
「こら、利助」
と、長左衛門はまっさおになって利助の肩をひっぱった。武士はさわやかな声で、
「はっはっは。なかなか勝ち気な子だ。結構けっこう。そこまで言うからには、さだめし理由があるのであろう」
「聞きたいか」
「おお、聞きたい」
「なら、まずは名を名乗れ」
若い武士はきゅうに生まじめな顔になって、
「なるほど、これは丈夫を遇する礼を失したかな。拙者、来原良蔵。藩校明倫館の学生である」
「くりはら」
息をのんだのは、長左衛門だった。
萩城下の来原良蔵といえば、その雷名はこの束荷村にもとどろいている。おさないころから秀才のほまれが高く、十四歳のとき早くも長州藩主・毛利敬親(当時は慶親)の御前で即席の漢詩を賦したところ、たいへん優秀な出来だったため、藩主はただちに金三百匹をあたえたという。
逸話がある。
明倫館の先輩が、或るとき、
「来原はこのごろ学問をなまけている。試験してやる」
難癖をつけ、講堂へ来るよう言いつけた。もちろん来原はなまけてなどいない。衆人環視のなか、恥をかかせてやろうとしただけだった。
来原はあわてず、ふだん読んでいる書物をつぎつぎと講堂へはこびこんだ。何しろ無類の読書家だから経史百家の原典や注釈書がたちまち何本もの柱をなす。そうした上で、くだんの先輩に、
「どの本でもいい。試験してください」
先輩は、手あたりしだいに一冊ぬきだしては本文を読んで質問したが、来原はことごとく流暢かつ明確に正答を述べ、満座を驚嘆させたという。藩内にこの来原を上まわる秀才といえば、ただひとり、山鹿流兵学師範・吉田寅次郎(のちの松陰)あるのみといううわさだった。その来原良蔵に、
「こんな田舎へ、どんなご用で?」
長左衛門は土間にひざをついたまま、おずおずと問うた。来原は、板の間の上がり口にやわらかに腰かけて、
「なあに。屋根の下にとじこもって勉強するのも大切だが、こんにち、時勢はいよいよ困難になりつつある。これまでの儒者や経世家のように書物から得た知識だけで応対しようとすると、わが藩にとどまらぬ、日本全体が大きなやけどを負うことになる。私は、菲才の身ではあるが、いずれ世を覆う仕事がしたいと思っている。その日のために、いまから学業のあいまにご領内を巡歴しているのだ。生きた知識を得るためにな」
(立派なことを言う)
利助は、感動した。この人は、世にみちびかれるのではない。世をみちびく人なのだ。しかもこの武士、あらためて見ればまだ二十になるかならぬかという年まわり。利助の心に、はじめて、
(この人のようになりたい)
尊敬の念がきざした。温水に手をひたすような快感だった。と、来原は、
「さあ、私は名乗ったぞ。おぬしの理由を述べよ。お前がなぜさむらいを気取るのか、そのわけを聞かせい」
利助はもう、われを忘れている。
未知の体験に打たれるあまり、ぼーっと来原に見とれている。つい、母にも打ち明けたことのない大望を口にしてしまった。
「百姓では、天下が取れん」
「ほう」
来原が目を光らせる。利助は、
「わしは……わしは、一国の宰相になりたい」
「り、利助」
ちょうど奥から出てきた母親が、突っ立ったまま、目をいっぱいに見ひらいた。唇をふるわせ、神仏のたたりを恐れる顔つきで、
「お前はまあ、何という大それたことを。来原様、どうか子供のたわごとと思うて、お聞きながしを……」
それはそうだ。こんな江戸からも京大坂からも離れた僻村のせがれが一国の宰相になれるくらいなら、一寸法師だって海坊主になれる。身のほど知らずもはなはだしいだろう。しかし来原は、
「ふむ」
まじめに考える顔になると、腕をのばし、彼女がもってきたお盆から、ふちの欠けた茶碗をとって、
「いやいや、ご母堂。いいことばを聞いた」
愉快そうに茶を飲んだ。茶といっても、そのへんに生えている柿の木の葉をからからに乾かして煎じただけの薄味のお湯にすぎないのだが、来原はいかにも若いさかりの男子らしく、ごくごくと盛大な音を立てて飲んでしまった。そうして、からっぽの茶碗をお盆にもどして、
「字は、習うたか?」
利助に聞いた。利助はぷいと横を向いて、
「……まだ」
「村には寺子屋もあるのだろう?」
「はい。半里先に、三隅勘三郎先生の」
と口をはさんだのは、長左衛門だった。来原はおだやかに利助の頭をなでながら、
「よしよし。お前はあしたからそこへ通うのだ。年上の悪童といさかいを起こすひまがあったら、勉強するんじゃ。いいな?」
利助はまっすぐ来原を見あげ、目を輝かせて、
「うん」
「うんではない。武士の返事は『はい』だぞ」
「はい!」
「お前の名はおぼえておく」
そう言うと、来原はやにわに立ちあがった。母親が持ってきた二杯目のお茶をこれまた一気にあおってから、
「利助よ。もしもお前がほんとうに傑物なら、ほんとうに一国の宰相となる器量のもちぬしなら、天がかならず味方する。私たちを再会させる」
「さい、かい……」
「そのときは、私がお前を武士にしてやる。どこへ出しても恥ずかしくない、正真正銘のさむらいにな」
「はい」
「勉強しろ」
言いすてるや、来原は、まっくらな戸外へすたすたと出てしまった。そのうしろ姿を見て、利助は、
(あ)
ようやく気づいた。
来原良蔵、着ているものは寸分の隙もなし。
が、足だけは、わらじも草履もはいていなかった。素肌をさらした左右のかかとが傷だらけで冷たい土をふんでいる。利助は戸口の柱にしがみついて、
「なんで、はだしなんじゃあ?」
聞こうとして、口をつぐんだ。それが武家の節度という気がした。
(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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