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米澤穂信さんの大人気青春ミステリ〈古典部〉シリーズ。
最新刊となる第6弾『いまさら翼といわれても』が待望の文庫化!
6月14日(金)の発売を前に、カドブンでは表題短編の試し読みを特別公開します。
合唱祭の直前に突如姿を消した千反田、その行方を推理する奉太郎が辿り着く場所は……?
>>試し読み第1回
「え、そうかい?」
里志があっけに取られる一方、伊原の目の色が変わった。
「どういうこと? だってあれ、ふつうの角砂糖にしか見えなかったのよ」
「だったらふつうの角砂糖だったんだろう」
「やっぱりわたしの味覚がおかしかったってこと?」
「そうじゃなかったんだろ?」
俺は頭を?いた。
「さっき自分で言っていたじゃないか。店の人が持ってきてくれた時、コーヒーがどうなっていたか」
里志が即答する。
「ソーサーに角砂糖が二個添えてあったって言ってたね」
「そうだったな。けど俺は、砂糖のことを言おうとしたんじゃない」
伊原と里志のふたりは、難しい顔をして黙り込んでしまった。ちらりと千反田の様子を窺うと、どうやら話を聞いているようではあるが、途中から会話に加わっただけに何が問題なのかわからないようで、きょとんとしている。
「伊原。コーヒーを注文する時、店の人にはなんて訊かれたんだ?」
「だから、ミルクと砂糖は、って」
「正確にそう言ったのか?」
伊原は記憶を辿るように俯き黙っていたが、やがて首を横に振った。
「よく憶えてない」
「意地の悪い訊き方をしたな。すまん、ふつう憶えてないよな。もしかしたら、『ミルクと砂糖はお入れしますか』って訊かれたんじゃないかって思ったんだ」
ぴんと来ないようで、里志が訝しそうに訊いてくる。
「ふつうの言いまわしだと思うけど、どこかおかしいかな」
「おかしいわけじゃないが……。伊原はさっき、コーヒーには最初からミルクが入っていたと言ってなかったか?」
不意を衝かれたように、伊原が目をしばたたかせる。
「そうね。そうだった」
「まあ、そういうことだ」
里志が大袈裟に手を振る。
「ホータロー! そういうことだ、じゃないよ。話の途中でモットーを発揮するのはやめてくれないかな」
そんなつもりはなかった。……いや、そうでもないか。最後は省略してもいいかなとは思っていた。
眉根を寄せた思案顔で、摩耶花が呟く。
「折木が言いたいこと、なんとなくわかってきたかも。『ミルクと砂糖』をお願いしたコーヒーに最初からミルクが入っていたなら、砂糖も入っていたんじゃないか、ってこと?」
頷く。
「でも、わたしは一口飲んで、苦いって思ったから角砂糖を入れたのよ。最初から砂糖が入っていたら、そんなふうに思わなかったはず」
「だろうな。ところで、角砂糖を入れた後はどうした?」
「飲んだ」
「いや、その前に」
「レモンケーキは食べたけど」
「そうじゃなくてだな」
それまで話を聞いていただけの千反田が、おずおずと言葉を挟んできた。
「あの……。もしかして折木さんが言いたいのは、かき混ぜたんじゃないか、ってことですか?」
それを聞いて、里志が声を上げた。
「あ、そうか!」
伊原に向けて、意気込んで言う。
「そうだよ。摩耶花が飲んだコーヒーには、最初から砂糖が入っていたんだ。でも、底に沈んでいたから、甘みは感じなかった。そこに角砂糖を入れてかき混ぜたから……」
伊原も「ああ」と唸った。
「そっか。いきなり、角砂糖二つ分ぐらいの甘さになったんだ」
「うん、確かにそれっぽいね。当たりだよ、きっと」
そう言って里志は満足げに頷き、俺に笑いかけてくる。
「いやあ、なかなかの安楽椅子探偵だね」
そんなにたいした妙案を出したつもりはないが……。まあ、当事者である伊原にとっては、意識の盲点になっていたのかもしれない。
一方で伊原は、
「うん……。それっぽくはあるんだけど」
と歯切れが悪かった。
「わたしの記憶が曖昧なせいで、間違いなくそうだとも言い切れない感じなのよね。なんか、もう一回行って確かめたい気がする」
その喫茶店のそばの画材屋が行きつけだというのなら、また行く機会はあるだろう。いずれにしても、この場ではこれ以上追究は続けられない。そろそろ帰ろうかと、俺は文庫本を鞄に入れようとする。
その時、里志がいきなり言った。
「じゃあ、確かめに行こうよ」
ふたりで行くのか、ご苦労なことだと思っていたら、
「文集の話もそろそろしないといけないし」
と続いた。
「そうね、それは確かに……」
「でしょ?」
文化祭に向けての打ち合わせは、もちろん、わざわざ街外れまで行かなくても学校で充分済ませられる。しかしまあ、甘すぎる砂糖の謎の答え合わせを兼ねて喫茶店で打ち合わせというのも、小粋な話ではある。強いて反対はしなかった。
ただ、
「いまからだと、さすがに遅いな」
壁掛け時計は五時四十分を指している。
「確かにね。じゃあ明日……は、僕がだめだ。委員会の仕事がある」
明日は一学期の終業式だ。総務委員の里志には何か雑用があるのだろう。
「明後日でいいかな?」
構わないが、夏休みの初日から打ち合わせとは勤勉なことだ。伊原にも異存はなさそうで、それで決まりかと思った時、千反田が囁くような小声で言った。
「ごめんなさい。明後日はわたし、埋まっています」
伊原がはっとした表情になる。
「あ、そっか。そうだったね」
俺と里志は何も言わなかったが、物問いたげな雰囲気は出していたのだろう。伊原は俺たちに向けて、
「ちーちゃん、合唱祭に出るの」
と言った。
「そうなんだ。じゃあ駄目だね」
里志は納得したように頷いているが、俺は話が見えていなかった。この学校は、文化祭をはじめとして行事がやけに充実しているが、合唱祭というのは聞いていない。
「夏休みにそんなことやるのか? 体育館で?」
ふたり分の冷たい視線が返ってきた。
「そんなわけないでしょ」
「市が主催するイベントだよ」
学校の行事ではなかったのか。それはそうだ、いくら俺が活力から目を逸らしているといっても、行事の存在自体を知らないなんてことがあるわけはない。……よかった。
「神山市出身の作曲家、江嶋椙堂を記念した江嶋合唱祭。毎年この時期にやってるよ。神山市だけじゃなく近くの町からも合唱団が来て、椙堂の歌だけじゃなく、いろんな合唱曲を歌っていくんだ」
「知らない名前だな」
こういう話になると里志の独壇場だ。本人もそれを自覚していて、胸を張る。
「大正時代に児童雑誌の『赤い蝋燭』で活躍した童謡作詞家さ。北原白秋、西條八十、野口雨情と並んで童謡四天王と呼ばれた」
最後の童謡四天王うんぬんは里志の創作で間違いない。
「ちーちゃんに誘われて一回だけ練習に行ったんだけど、いまは漫画をやりたくって」
どことなく謝るような調子で、伊原が言う。俺に説明しつつ千反田にも向けた言葉だったのだろうが、千反田は気づかなかったのか、何も言わない。
古典部はもちろん神山高校の部活の一つであり、学年こそ同じだがクラスはばらばらな俺たちは、ほぼ部活を通じた繋がりしか持っていない。学校の外でそれぞれが何をしているかという話になると知りようもないし、その必要があるとも思わない。そう思っていただけに、千反田と伊原がいっしょに合唱をしていたというのは軽い驚きだった。
里志が頭の後ろで手を組む。
「うーん、じゃあ、打ち合わせの日程はまた今度決めようか。電話でも大丈夫だよね」
さりげなく言うが、連絡の取りまとめは自分がやると表明しているのだ。里志のこまめさと、人よりも労力をかけていることを表に出さない振る舞いを、俺は尊敬している。
「はい、それは大丈夫です」
千反田がそう答え、取りあえず今日は解散という雰囲気になった。夏のこの時期、日は長い。六時近くなっても夕暮れの気配もないが、俺は小説を鞄に入れて席を立つ。
「じゃあ、そういうことで」
「ああ。じゃあね」
覗き見する気はなかったが、講義室から出る途中、千反田が読んでいた本がちらりと目に入る。気のせいでなければ、それはどうやら、進路案内の本のようだった。
>>第3回へつづく
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