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試し読み

シリーズ累計245万部突破、不動のベスト青春ミステリ! 試し読み①『いまさら翼といわれても』

米澤穂信さんの大人気青春ミステリ〈古典部〉シリーズ。
最新刊となる第6弾『いまさら翼といわれても』が待望の文庫化!
6月14日(金)の発売を前に、カドブンでは表題短編の試し読みを特別公開します。
合唱祭の直前に突如姿を消した千反田ちたんだ、その行方を推理する奉太郎ほうたろうが辿り着く場所は……?




いまさら翼といわれても


  

 長く続いた梅雨が終わり、三日月に照らされた夜空には、小さな雲がひとひら浮かんでいるだけでした。部屋に吹き込む風は日が暮れても暖かく、夏が来ていることを感じさせます。彼方にぽつりぽつりと見える人家の明かりを気にしつつ、わたしは楽譜を見ながら、オルガンのキーに指を乗せました。
 流れ出す音をひととおり耳で覚え、今度はゆっくりと旋律を口ずさんでいきます。こんなに静かな夜は、ららら、と歌うメロディがどこまでも届いていくのではと気恥ずかしくなり、わたしの歌声は自然と小さなものになってしまいます。
 音を自分に染みこませようと、わたしは同じ歌を何度も歌います。やがて音程の正確さにほぼ満足がいくようになって、今度は歌詞を乗せようと息を吸い込んだその時、襖の向こうから、わたしを呼ぶ声がしました。
「える」
 父です。
 部屋に下がったわたしを父が呼ぶことは、滅多にありません。もしかして、オルガンや歌がうるさかったのでしょうか。おそるおそる答えます。
「はい」
「仏間に来なさい」
 父の声はいつものように重々しいものでしたが、怒っている様子はありません。胸をなで下ろしつつ、では何のご用だろうとなおさら不思議です。仏間はだいじな話をする時によく使う部屋なのですが、いま伝えられるべき大きなことに、心あたりがないのです。
「すぐに行きます」
 足音が遠ざかっていきます。どうやら、今日の音取りはここまで。オルガンの蓋を閉じ、窓を閉めました。
 部屋を出る時わたしはふと、何かためらいを感じました。父の用件とはなんなのか。それを知ることが急に、これといった理由もなく、恐ろしく感じられたのです。
 ──このまま歌い続けていてはいけないだろうか?
 ──ずっと同じ歌を歌っていては?
 そんな考えまで、頭をよぎります。
 いけません。本番が近づき、少し神経質になっているようです。わたしは自分の怯えを笑って、部屋の明かりを消しました。
 カーテンを閉じなかった窓の向こうでは、小さな雲が月の前を横切っていくところでした。

  

 期末試験を乗り越え夏休みを待つばかりとなった神山高校は、どこか弛緩した雰囲気に包まれていて、それは地学講義室も同じだった。もっとも古典部の雰囲気がふだん引き締まっているかと考えれば、そうではなかったと言わざるを得ないけれど。とはいえ、この部室に四人が揃うのも、少し久しぶりではないかという気がした。
 一クラスを収容できる地学講義室で、俺たちは気ままな席に陣取っている。とはいえ、めいめいはそれほど離れているわけではなく、講義室の真ん中付近に、数席おきに散らばっていた。
 俺と千反田は無言で本を読んでいた。俺が読んでいるのは忍者と姫と御落胤が出てくる話で、その場で思いついたような伏線のない大事件が矢継ぎ早に起きて章ごとに誰かが大ピンチに陥る、ひたすら愉快な読み物だ。試験でくたびれた頭には、実にうってつけと言える。千反田が読んでいるものは、わからない。豊富に写真が載っている大判の本で、旅行ガイドブックのようにも思えるけれど、ここからではよく見えないし、強いて見ようともしていない。どうやらあまり面白い内容ではないらしく、千反田は無表情にページを繰っている。
 そして伊原と里志は、A4のキャンパスノートに走り書きと落書きを繰り返し、ああでもないこうでもないと話し合っている。……いや、章の合間に小説を読む手を止めて少し様子を窺ってみると、書いているのも喋っているのも主に伊原の方らしかった。シャープペンを片手に難しい顔で、
「手よ。やっぱり手が問題なのよね」
 と呟いている。
「なるほど、手ね」
 里志がもっともらしく頷く。
「この子は右手が使えない……っていうか、心理的に使いたくないはずだから、そこを絵で描けば伏線になるのよ」
「なるほど、伏線ね」
 どうやら漫画の計画を練っているらしい。
 漫画研究会を退部して以降、伊原は自分が漫画を描いていることに含羞がんしゅうを見せなくなった。単に、俺も千反田も伊原いばらが創作をしていることはとうに知っているので、いまさら恥ずかしがったり隠したりする意味がないと思っているのかもしれない。あるいは、漫研をやめたことで、あいつの中で何かが変わったのかもしれない。
 千反田は元より、家を継ぐという自分の行く先をはっきりと見定めている。伊原も覚悟を決めたということになると、俺と里志さとしの情けなさが浮き彫りになって困る。……いや、俺たちがふつうで、高校二年生の時点で家業を継ぐことに迷いが皆無だったり、自分の愛するスキルを伸ばしたりしている女子ふたりの方がおかしいのだ。
「誰かに『右手どうしたの』って言わせればいいんだけど、この場面、ひとりなのよね。自分の手を見て自嘲するってのもなんかわざとらしいし、どうしようかなあ……」
「なるほど、ひとりね」
 にこにこと聞いているだけだった里志が、ここで一言付け加えた。
「ひとりの時って何してるの?」
「何って、えっと……」
 伊原は里志の方をろくに見もせず、腕を組んで天井を睨んでいたが、やがて急に目を輝かせて声を上げる。
「そっか、ふくちゃんナイス! そうだ、難しく考えなくてもよかったんだ。どうしてこんなとこでつまったんだろ。コーヒー飲ませればいいんじゃない。右手でカップを持とうとして、次のコマで左手で持つ。うん、さりげない。これね」
 なんだかよくわからないが、アイディアがまとまったらしい。伊原はリングノートに何やら大きく書き付けて、やけに力強く「オッケー」と言ってノートを閉じた。
「一段落かい?」
「いちおう。まだ描き始められないけど、これでだいたい完成像は見えたと思う」
「それはよかった」
 そして里志は、
「今度、どんな話になるのかだけでも教えてね」
 と言った。つまり、どんな話なのかもわからないまま、ひたすら伊原の独り言に相槌を打っていたらしい。いい加減だと思うべきか、それはそれでご苦労なことだと思うべきか、ちょっとわからない。
 一山越えて安心したのか、伊原はどこか間延びした声になっている。
「コーヒーっていえば、こないだ変なことがあった」
「へえ」
霧生きりゅうの画材屋に行ったんだけど……」
「霧生? なんでそんなとこまで!」
 話の腰を折って里志が疑問を挟むが、その気持ちはよくわかる。霧生はこの街の北端の地名で、神山高校からは自転車でも二十分ほどかかる。伊原の家からだと、悪くすると一時間近くかかってしまうのではないか。画材屋なら街中にもあるだろうに。伊原はどこか面倒そうに、
「ああ、それはね」
 と答えた。
「古いトーンが、その店にしかないの。あんまり使わないんだけど、いちおうね」
「ははあ、なるほどね」
 画材屋で売っているトーンとは、そも何物か。まあ、漫画を描くのに使う何かだということは察しがつく。いつまでも会話を盗み聞きする趣味もなし、小説に戻ろうと思うが、腕時計を見ると五時近かった。いまから新章を読み始めると、途中で閉門の時刻になりかねない。帰ってからのお楽しみということにして、文庫本を閉じる。そのしぐさを目の端で捉えていたのか、伊原がこっちを向いた。
「あ、折木おれきも聞いてよ」
「聞こえてるぞ」
「そう? でね、買い物したら喉が渇いちゃって、テストが終わったお祝いだって思って、近くの喫茶店に入ったの。コーヒーが自慢だっていうから頼んだら、なんか変な味でさ。あれ、なんだったんだろ」
 里志が含み笑いをした。
摩耶花まやかが喫茶店でコーヒーとはね。まるでホータローだ」
 伊原はむっつりと頬を膨らませる。
「取材よ、取材。現に、そのおかげでアイディア出たじゃない」
「はいはい。で、変な味っていうのは?」
 里志にお認め頂いて恐縮だが、確かに俺はときどき喫茶店に行く。味の違いがわかるほどコーヒーを飲み比べたことはないが、うまいな、まずいなというぐらいは思うことがある。けれど、変な味のコーヒーというのは想像がつかない。
 伊原は顔の前で手を振った。
「あ、ちなみに、変な味だったのは砂糖の方ね」
 ますますわからなくなった。砂糖の味は甘いに決まっている。里志も首を傾げていたが、やがてにっこりと笑った。
「わかった。しょっぱかったんだ」
「……ふくちゃん、本気で言ってるの?」
「会話を楽しんでいるんだよ」
 ぬけぬけと言い放つ笑顔を伊原はしばらく睨んでいたが、やがて小さく溜め息をついた。
「そうじゃなくて、甘かったの」
 俺と里志の声が、はからずも重なる。
「ふつうじゃないか」
 どん、と伊原が机にこぶしを振り下ろす。
「ふつうじゃないから話してるんでしょ!」
 はい。
 伊原は、俺たちが口をつぐんだのを確かめるように睨んでから、言った。
「単に甘かったんじゃなくて、すっごく、甘かったのよね。あんなに甘いコーヒーなんて缶コーヒーぐらいでしか飲んだことないから、ちょっとびっくりしちゃった」
「入れすぎただけじゃないのか」
 と俺が言うと、伊原は説明不足を詫びるように、かくんと頷いてみせた。
「えっとね。最初から言うと、わたしはコーヒーとケーキのセットを頼んだの。ケーキはレモンケーキで、こっちは別にそんなに甘くなかったと思う。コーヒーにミルクと砂糖はって訊かれたから、お願いしますって答えた。店の人が持ってきてくれたコーヒーには最初からミルクが入ってて、ソーサーには角砂糖が二個、添えてあった。一口飲んでふつうだなって思ったから、角砂糖を一個入れてまた飲んだら……もう、舌がとろけそうだったのよ」
 里志が神妙に頷いた。
「角砂糖だったんだ。壺からスプーンですくうやり方なら、入れすぎたのかなって思うところだけど」
「そうなの。角砂糖一個であんなに甘くなるなんて変だから、わたしの味覚がおかしいのかなって思っちゃった。それから少し気をつけていたんだけど、他はふだんと変わりなかったのよね」
 腕を組み、里志が首をひねる。
「ふうん。甘すぎる砂糖、か」
「ね、変でしょ」
「そうだね。でも、考えられることがないわけでもないかな」
「ほんとに?」
 伊原が身を乗り出す。里志は重々しく頷いた。
「甘味料の中には、砂糖の何百倍、何千倍も甘いものがある。そうした甘味料を砂糖と同じ量だけ入れたら、それはとんでもなく甘くなるよね」
「うーん」
 一声唸って、伊原が慎重な様子で言う。
「確かにすっごく甘かったけど、さっきも言ったとおりせいぜい缶コーヒーぐらいで、飲めないわけじゃなかった。それに、甘味料を角砂糖の形にして出すお店なんて、ふくちゃん知ってる?」
「いや……知らないね。あるとも思えない」
 では、いまのやり取りは何だったのだ。
「でも、もしかしたら甘みの強い砂糖ってのはあるのかもね。精製法の違いとか、でなかったら原料の違いとかで」
 里志は腕をほどき、千反田の方に首を巡らす。
「ねえ千反田さん。千反田さんは知らないかな」
「えっ」
 ぼんやりと本を読んでいた千反田が、その一言で弾かれたように顔を上げた。
「あ、あの、何をでしょうか」
 俺たちは結構な声量で話していた。それがまるで耳に入っていなかったらしい。里志はにこやかな声で、
「摩耶花が、喫茶店に行ったらやたらと甘い角砂糖を出されたって言うからさ。もしかして、ふつうよりも甘い砂糖の原料になる、変わった品種があるんじゃないかなって思ったんだ。千反田さんならそういう品種も知ってるんじゃないかな」
「ああ……そういうことでしたか」
 千反田は手元の本を閉じて微笑んだが、俺はふと、その表情に違和感を覚えた。千反田はもともと、表情は控えめだ。大笑いしたり怒りをあらわにしたりはしない。しかし、それを差し引いても、いまの微笑は作ったように硬いものに見えたのだ。
 穏やかな声で千反田が答える。
「残念ですが、知りません。砂糖黍さとうきび甜菜てんさいもうちでは作っていないので……」
「そうかあ。いつか作ったりしないのかな」
 その途端、千反田がわずかに目を伏せた。
「……わかりません。すみません」
「そっか。ごめんごめん、変なこと訊いて。なんだろうね、甘い砂糖。意外と難しい。ちょっと気になるな」
「ええ。なんでしょうね」
 そう返す口ぶりもやはりどこかうつろなもので、話を引き取る様子もない。
 伊原が意味ありげな視線を送ってくる。察するに「ちーちゃん、ちょっと調子悪そうじゃない? あんた何か知ってる?」といったあたりだろうか。俺は首を横に振り、「何も知らない」の意を込める。
 少し会話が途切れてしまった気まずさを取り繕うように、里志がくるりと俺の方を向いて訊いてきた。
「ホータローはどう思う? やっぱり、特別な甘すぎる砂糖だったのかな」
 話を聞いていて、俺なりに思いついたことはあった。訊かれなければ話す必要はないと思っていたが、訊かれて黙っている必要もない。
「そんなに難しい話じゃないと思うがな」
 と返す。

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