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米澤穂信さんの大人気青春ミステリ〈古典部〉シリーズ。
最新刊となる第6弾『いまさら翼といわれても』が待望の文庫化!
6月14日(金)の発売を前に、カドブンでは表題短編の試し読みを特別公開します。
合唱祭の直前に突如姿を消した千反田、その行方を推理する奉太郎が辿り着く場所は……?(試し読み第1回へ)
>>試し読み第2回へ
3
夏休みの初日に、俺は冷やし中華を作った。
午前中いまにも一雨来そうな重い空だったせいか、昼の時分時を迎えても夏本番の割にはやや涼しく、冷やし中華に最適の日だとは言えなかった。それでも献立を変えなかったのは、中華麺の消費期限が今日までだったからだ。
酢と醤油と砂糖と胡麻油と味醂を目分量で混ぜ合わせ、即席のタレにする。麺を茹でて冷水で締める。具はトマトとハムと、ちょっと目を離したら焦げてしまった薄焼き卵。トマトはくし切り、ハムと卵は細切りにする。盛りつけの見栄えはどうでもいいので、麺の水気を切って皿に盛り、その上に具を鷲づかみで置いていく。最後にざっとタレをかけまわして、一丁上がりである。おまけに辛子も皿の隅に添えておく。
キッチンからリビングに皿を運び、箸と麦茶を用意して仕度が整う。いただきます、と合掌して、箸を手にしたところで、電話が鳴った。
鳴り続けるベルをしばらく放置し、壁掛け時計に目をやる。食事時に無礼なと思ったからだが、時刻は午後二時半をまわっていた。午後になって日が射してから洗濯物を干したので、遅くなってしまった。これでは電話の相手が非常識だとは言えない。次に、じっと冷やし中華を見つめる。……のびにくい麺料理でよかったと思うしかない。のたりと立ち上がって受話器を取る。
「はい」
という第一声がやや不機嫌だったことは、やむを得ないだろう。
『もしもし。伊原と申します。折木さんのお宅でしょうか』
違うよと言ってやりたいところだったが、聞こえてきた声が張り詰めていたので冗談は言いかねた。
「伊原か」
『あ、折木。よかった、何よいまの低い声』
「昼飯にしようと思ってたところなんだ」
『そうなの。ごめん、じゃあ……』
伊原が俺に電話をかけてくるということは、何かよほどの用件があるに違いない。冷やし中華はしばらく棚上げにするしかない。
「構わんぞ。なんだ」
『あのさ』
電話を通じて、ためらいが伝わってきた気がした。ややあって、訊いてくる。
『ちーちゃんの行きそうなところ、知らない?』
受話器を持つ手を替える。
「……なんで俺に訊く?」
答える伊原の声には、険があった。
『心あたり全員に訊いてて、あんたが最後なの』
「なるほどな」
どういうことなのか訊きたかったが、伊原が切羽詰まっていることはなんとなく察せられたので、事情は後まわしにする。
「まず、学校だろう」
『うん』
「それから市立図書館。鏑矢中学校のそばの、なんていったかな、前に大日向と行った喫茶店。移転したけど、これも喫茶店のパイナップルサンド」
千反田と行ったことがある場所を、思いつくままに挙げていく。しかし、図書館はともかく千反田が本当に一人で喫茶店に入るかと考えれば、可能性は低そうだと自分でも思う。
『わかった、ありがとう。図書館は考えなかったな。学校は、ふくちゃんが用事で行ってるから頼んで見てもらったけど、ちーちゃんの靴はないって』
「そうか。……なにかあったのか」
言ってから思い出す。
「今日は合唱祭じゃないか。千反田が来てないのか」
『うん』
それで焦っているのか。
『出番は六時からだから時間はあるんだけど、ちーちゃんいないのよ』
六時からと聞いて、なんだか力が抜けた。
「寝坊してるんだろ」
『あんたじゃないんだから』
「俺は遅刻はしても寝坊はしたことないぞ。いや、それはどうでもいいんだ、仕度に手間取ってるっていうだけじゃないのか」
もどかしげな声が返る。
『そうじゃない。ちーちゃんの家がある陣出から文化会館まで、いっしょにバスに乗ってきたっていうおばあさんがいるのよ』
どうやら合唱祭の会場は、市の文化会館らしい。俺の家からは、自転車に乗れば十分ほどで行ける。
「じゃあ、文化会館に着いてからいなくなったのか。俺にまで電話してくるってことは、建物の中は捜したんだな」
『ずいぶん、ね。どこにもいない』
もう一度受話器を持ち替える。
「……深刻に考えるべきなのか?」
『わかんない。そのうち来るような気もしてるんだけど、合唱団の人が心配しちゃって、知り合いに訊いてみてくれっていうのよ』
「いまさらだが、なんでお前がそこにいるんだ」
『前に練習に参加したことがあるって言わなかったっけ。当日だけでもと思って、手伝いに来てるの』
「そういうことか。まあとにかく、うちには来てないぞ」
伊原が余裕をなくしているようだったので、少しなごませようと冗談のつもりで言ったのだが、返ってきた声は冷たかった。
『行ってると思ってない』
「さいで」
『……ん、でも、ありがとう。じゃあ切るね』
「ああ」
通話が切れる。受話器を置いて、俺は冷やし中華を振り返った。
冷やし中華には、中華そばにはない大きな利点がある。
火傷の心配がないので、その気になれば短時間で食べることもできるのだ。
神山市民文化会館は赤レンガのようなタイルに覆われた四階建てで、大ホールと小ホールのふたつを備えた堂々たる施設だ。収容人数は知らなかったが、案内板を見たところ大ホールには千二百人、小ホールには四百人が入るらしい。黒い大理石が敷かれた吹き抜けのエントランスホールには「江嶋合唱祭」の立て看板が立てられ、けっこう大勢の人がうろうろしていた。
合唱祭そのものは、二時から始まっているらしい。千反田の出番まで四時間あるということは、相当多くの合唱団が参加するのだろうか。あるいは昼の部と夜の部に分かれているのかもしれない。立て看板には、そのあたりのことまでは書かれていなかった。
案内カウンターまで行き、水色の制服を着た係員に話しかける。
「あの」
係員は女の人で、見るからに学生の俺にも愛想がよかった。
「はい。どうなさいましたか」
そこで、はたと気づく。千反田が所属する合唱団の名前を知らない。その団の控室に行けば伊原に合流できると思ったのだが、これでは訊きようがない。
「あの……」
「あ、すみません」
少し考えて、質問の内容を工夫する。
そうか、別に悩むほどのことではないか。
「六時から歌う合唱団の控室を教えていただけますか」
係員さんはにっこり微笑んで、手元のファイルを何枚か繰った。
「六時からですと、神山混声合唱団ですね。二階のA7控室です」
思ったよりストレートな名前だった。礼を言って、二階へ上がる。
目当てのA7控室はすぐに見つかった。廊下に並ぶドアの間隔から見て、十畳以上はあるだろう大きな控室だ。白に近い灰色のドアは鉄製で、下手な字で「神山混声合唱団控室」と書かれたコピー用紙がセロファンテープで留めてある。鉄のドアをノックすると銅鑼のような音が鳴りそうで、俺はそのまま押し開けた。
ドアを開けると、中にいた人間が弾かれたようにこちらを見た。伊原だ。入ってきたのが俺だと気づくと、意外そうに目を見開いた。
「よう」
片手を挙げて中に入る。
すると、ドアの脇にあった傘立てに足が引っかかった。不安定な傘立てで、さほど強く蹴ったとも思えないのに倒れてしまい、立ててあった傘がカーペット敷きの床に飛び出していく。
「おっと」
「いきなりなにやってるのよ!」
思わぬ援軍が颯爽と登場、というつもりでやって来たのに、間の抜けた第一歩になってしまった。近くでパイプ椅子に座っていた初老の女性が、
「あらあら」
と言いながら腰を浮かせようとする。どうやらこの人の傘だったらしい。
「すみません」
謝りつつ傘立てを起こし、傘を入れる。手が濡れてしまったので、ポケットのハンカチでさっと拭う。
「いえ、こちらこそごめんなさいね」
老婦人はそれだけ言って、座り直した。喪服のように黒いジャケット、黒いスカートに身を包んで、背すじを伸ばして座る姿が印象に残った。
A7控室は廊下から見た印象通りに広かったが、物が少なくやけにがらんとしていた。床にパイプ椅子が十脚ほど出ているほかは、廊下側の壁際に机が少し並んでいるだけだ。机は荷物置きになっていて、鞄がずらりと置かれている。他の壁際にはパイプ椅子が畳んだ状態で立てかけられていた。出番まで時間があるからか、部屋にはまだ、伊原と老婦人のふたりしかいなかった。伊原が小走りに駆け寄ってくる。傘の失態は忘れてくれたようで、第一声は、
「来たんだ。ありがとう」
だった。
電話で相談されたからといって、校外でのトラブルに首を突っ込んでいくのは差し出がましいように思う。それでもまあ、ご近所で困っていることがわかっていてのうのうと冷やし中華をたぐるのも不人情だろうと来てみたが、礼を言われればなんだかこそばゆいような感じもする。俺はなんとなく伊原から視線を外し、控室をぐるりと見まわした。
「千反田はまだみたいだな」
「そうなの。ちーちゃん携帯電話持ってないし……」
「本当は何時に来るはずだったんだ」
言って、俺はちらりと自分の腕時計を見る。もうちょっとで三時半だ。
「一時半」
「……ずいぶん早い楽屋入りだな」
「二時の開演の時に、合唱団の代表何人かがステージに上がって挨拶するの。ちーちゃん、そこに出ることになってたから」
「お披露目か。じゃあ、本番はやっぱり六時ってことか。他のメンバーは来てるのか?」
「昼から来る予定だった人はみんな来ていて、いまはホールで他の合唱団の歌を聴いてる。後は、夕方から合流する人たちが五時頃からばらばらと集まってくるはず」
それなら、千反田が来るのが五時過ぎになったとしても、合唱自体には差し支えないだろう。まずはよかったが、いったん会場に来た千反田が連絡もなく行方をくらましたというのはただごとではない。
思ったことを言うべきか少し悩んだが、伊原がやけに気を揉んでいるようなので、やはり訊いておく。
「千反田は、いないとだめなのか」
「えっ」
「合唱ってことは、大勢で歌うんだろう? そりゃあ、いるに越したことはないんだろうが、一人ぐらい抜けても問題ないんじゃないか」
伊原は首を横に振った。
「だめなの」
「なんで? 千反田の親戚でも来てるとか?」
「来てるかもしれないけど、そういうことじゃない。……ちーちゃん、ソロで歌うのよ」
俺は天井を見上げた。なんてこった。
どんな歌を歌うのかは知らないが、ソロパートなら花形だ。それが行方不明では洒落にならない。伊原は純粋に千反田の安否を気遣っているだろうが、他の合唱団メンバーは、そもそも自分たちはステージに上がれるのかどうか気が気でないだろう。
気持ちを切り替え、俺は訊いた。
「立ちまわり先は、他にどんな情報が集まってる?」
伊原は、手の中に収まるような小さい手帳を持っていた。そのページをめくりつつ答えてくる。
「十文字さんのところには行ってないって。学校の他には、城址公園と光文堂書店を教えてくれた。入須先輩は伯耆屋っていう服屋さんと、荒楠神社」
俺は頭を?いた。
「伯耆屋ってのはわからんが、後はぜんぶ遠いな。ここまではバスで来たんだから、千反田は徒歩だろう。歩いて行くのは無理がある場所ばかりだ」
「がんばれば行けるとは思うけど、考えにくいかな」
「駅までは充分徒歩圏内だから、駅前のバスセンターで別路線のバスに乗れば、ってところか」
「そんなことするかなあ」
しないだろう。……ふつうなら。
根本的な疑問がある。
「なあ。千反田は、自分の意志でどこかに行ったのか? それとも、言いにくいが、事故とかに遭ったと思うか?」
「そんなこと……」
答える声はひどく小さかった。
「わたしに訊かれても困る。わかるわけないじゃない」
もっともだ。頭を掻く。
>>第4回へつづく
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