【幻の作品が復活! 皆川博子『ゆめこ縮緬』復刊企画③】「花溶け」冒頭公開&おすすめコメント・伊豫田晃一(画家)
~皆川博子幻の名作『ゆめこ縮緬』復刊に寄せて~
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皆川博子さんの短篇は「冒頭がすごい」「引き込まれる」と話題です。幻想・綺想をこよなく愛する7人の本読みの達人に、『ゆめこ縮緬』収録作の中で、書き出しが好きな作品を教えていただきました。
1篇にしぼるのはとても難しい! といううれしい悲鳴の中、皆さんが選んでくれた作品の試し読みをします。ぜひ皆川ワールドに触れてみてください。
推薦コメント
「花溶け」
翳が色をもてばこのようにならざるを得ない。そういう白だ。現実の花を言葉だけで幻の花に変えてしまう、皆川さんの魔力を感じます。
――伊豫田晃一(画家)
試し読み
1
日が暮れると、隣家とのあいだにそびえる泰山木の、昏く繁る葉のあいだに大輪の花が白く浮きだす。
ただよう香りも、昼より、こころなしかあざやかだ。
両手にあまるほどの巨大な花だが、一枝に一輪しか咲かないこの花が開くと、佳耶は、高貴なそして壮麗な神秘を、ひそかにのぞき視るように感じる。
白、といっても、輝くばかりの華々しい白ではない。翳が色をもてばこのようにならざるを得ない。そういう白だ。きらびやかに人目にたつことなど、念頭にない花だ。唯一神が、自分の姿を人に似せるのではなく、花として顕現するなら、この花のほかにはない。そう佳耶は感じる。清楚を象徴する白百合でさえ、この花にくらべれば俗であり、騒々しすぎる。
ゆるやかに開花し、開ききると、厚い花弁は蘂をはなれて、優雅に地に落ちる。
泰山木が、この家と隣家、どちらの地所のものなのか、佳耶は知らない。二階の窓から見下ろしても、植え込みにさえぎられ、幹と根が塀のどちら側にあるのか見極められないのだ。
去年の秋、煩瑣な結婚式や親類への挨拶まわりを終え、ようやくこの部屋に落ち着いたとき、佳耶はからだの血がなくなったようなだるさに耐えられず、畳に突っ伏してしまった。高熱をだしていた。床についたまま日が過ぎた。夫とさだめられた相手と新枕もかわさず、年があらたまり、高熱はひいたが微熱がとれず、春が過ぎ、夏をむかえたのだった。手水場が二階にあるので、階下に下りなくても用は足り、食事は三度三度、女中が上げ下げする。
夫は産科の開業医であり、母屋と同じ敷地のなかに入院の設備もある診療所を開いている。和風の造りで、畳敷きの和室が五間ほど、産婦の病室にあてられている。
母屋の階下には夫の母が住み、家計と家事をとりしきり、使用人も十分にいて、佳耶が寝ついていても、何のさわりもなく日々は過ぎていた。
佳耶の病間であるこの部屋と襖ひとつで仕切られた隣室は、夫の妹毬子が使っている。夫の寝所は階下の座敷である。
深夜でも、出産や往診で、しばしば夫は起きなくてはならない。部屋を別にしたのは、佳耶が落ち着いて養生できるようにという配慮からだと夫もその母も言う。
一日の診療が終わり母屋にもどっても、夫はすぐに二階にあがってはこず、階下で母親、妹とともに夕食をとり、顔をみせるのはその後であった。ほとんど話もかわさず──かわすような話題もなく──下りていく。勤め人なら土曜は半ドン、日曜は休みだが、出産は土曜も日曜も、盆正月も関係ないと、夫は佳耶のそばでくつろぐことはなかった。
夫と顔をあわせる時間が少ないのは、佳耶にはむしろ都合がよかった。母が家を出、父が死んだあと、姉の嫁ぎ先に、気兼ねしながら居候していた。女学校の学資も義兄に出してもらっていたから、その上の専門学校にかよいたいとはとても切り出せず、去年──最高学年の五年になった年の夏休み──仲人を商売にしているものから縁談をもちこまれ、姉が娘のころに着たという晴着をまとわされ、見合いとはいっても品定めをするのは相手のほう、佳耶の望みなどだれも聞きはしない、その秋に、卒業もせずに嫁がされたのであった。
夫はすでに三十に近く、十七の佳耶と共通の話題などありようもない。毬子は女子医専の学生で、夫の妹といっても年は佳耶に二つまさる。医専が夏休みになって、毬子は佳耶とすごす時間が長くなった。
あなたをみていると、いらいらするわ。時折、毬子はとがった声を投げる。理由のわからない微熱、気にならないの?
結核じゃないみたいだから、別にいいわ。
佳耶はおとなしく言う。伝染性の病気であれば、隔離されるはずだ。毬子とつきあうのを禁じられないのは、病菌をもっていないからだろう。そう佳耶は思っている。
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