【入手困難、幻の作品が復活! 皆川博子『ゆめこ縮緬』復刊企画②】「桔梗闇」冒頭公開&おすすめコメント・千街晶之(書評家)
~皆川博子幻の名作『ゆめこ縮緬』復刊に寄せて~
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皆川博子さんの短篇は「冒頭がすごい」「引き込まれる」と話題です。幻想・綺想をこよなく愛する7人の本読みの達人に、『ゆめこ縮緬』収録作の中で、書き出しが好きな作品を教えていただきました。
1篇にしぼるのはとても難しい! といううれしい悲鳴の中、皆さんが選んでくれた作品の試し読みをします。ぜひ皆川ワールドに触れてみてください。
コメント
最初の一行から結末に至るまで、真似しようのない奇想に溢れた一篇。孤独な少年、広く薄暗い家、美しい継母と綱渡りの芸人、そして地蔵が鳴く芒の原……不思議と甘い安らぎを感じさせる幻想小説だ。
――千街晶之(書評家)
試し読み「桔梗闇」
1
み、みィと、地蔵が鳴いた。
地蔵が鳴くものか、猫だろうって? まあ、お聞きな。
あたり一面、芒の原。
おあつらえむきに、お月さまじゃないか。
月の光がつくる影のせいさ、地蔵が薄く笑っているように見えるのは。
一つだけなら、さほど目をひくこともない、身の丈五寸ほどの小さい地蔵だけれど、それが、芒のあいだに、百か、二百か。
あちらで、みィ、こちらで、みィ。
鳴きかわすのだよ。
そう言って、桔梗はみィィと語尾をのばす。
「噓だい」
六歳の周也は、身をこわばらせ、空元気をみせる。
「噓ばっかり言って」
「噓と思うなら、お思いよ」
桔梗は、鏡にむきなおる。
浅葱の長襦袢を、両の肩までむきだしに、皿に溶いた水白粉を平刷毛で、のどから顎に塗る。もともと、艶のある白い肌だ。水白粉のほうが色が鈍い。
「はい」と、刷毛を彼の手にわたし、襟元をいっそうゆるめた。
なで肩で細く長い首がのびたさまが、細口の徳利みたいだと、周也は思っている。
一々言いつけられなくても、このごろは、何をすればいいのか、承知だ。
縁側に鏡台をおき、桔梗の敷いた座蒲団は、紫の縮緬。
桔梗がくるまで、周也はその座蒲団を見たことがなかった。
「あたしは、そこで育ったのだからね、鳴き地蔵が噓なら、あたしが育ったのも、噓。ここにあたしがいるのも、噓になる」
早くおしな、と、うながす。
板刷毛を手に、周也は少しうしろめたい。
ずり落ちそうな長襦袢は、細腰に巻いた緋の腰紐でかろうじてとまっている。
陽の光が、鶏頭の脂ぎった襞のあいだにとろりと溜まっている。
桔梗は片手でおくれ毛をかきあげ、少し前かがみになり、周也の板刷毛が触れると、「冷たい」と、首をすくめた。声が笑いをふくむ。
「動いたらだめだよ」周也は、どぎまぎして、声が邪険になる。
中腰で、肩から襟足の生えぎわまで、板刷毛を慎重にひく。
刷毛が感じる桔梗の肌の感触は、周也のみぞおちにまで流れる。
「軽く、刷いておくれよ、周ちゃん。そんなにきつくちゃあ、板があたるよ」
周也の目に、桔梗の頰のりんかくが、光にふちどられて映る。こまかいうぶ毛が、金粉のようだ。
「真ん中から塗って、それから、両脇というほうが、きれいに塗れるんだけれどねえ」
失敗したのかな、と、周也は困ってしまい、
「やりなおす?」
「いいよ。かまわないよ」
つづけて、と、うながす。
脂ののった肌に、水白粉がしっとりとなじむ。
小皿に刷毛をひたしては、丹念に塗る。
あいた手で、汗をぬぐった。
そのしぐさが鏡に映ったようで、
「汗っかきだね」桔梗はからかった。
み、みィと地蔵が鳴いたら、こんな声なのだろうか、と周也は思う。
背後に足音がしたので、周也はうろたえた。
だれに指摘されなくても、彼自身が気づいている。男の子が化粧道具をいじる、そのことだって、決してほめられたことではないけれど、それ以上に、桔梗の肌から刷毛を媒介につたわるこの感覚は、禁断のものだ。
足音は彼の後ろで立ち止まった。
ふりむかなくても、ばあやのおよねだとわかる。
およねは、周也の母がこの家に嫁ぐとき、実家から従いてきた古強者で、母がいなくなった後も、いつづけて、奉公人をとりしきっている。
だから、周也よりこの家に長くいるのだし、まして先月から同居するようになった桔梗など、物の数でもないといったふうだ。
およねはそれでも、召使としての分は心得ていますというふうに、言葉に出して咎めはしないが、表情が、はっきり告げている。
坊っちゃま、いけません。その女のそばにへばりついていては、いけません。
およねは、桔梗をあからさまに蔑んでいた。
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