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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.39

5回を超えたら、即リセット――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『デジタルリセット』

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

『デジタルリセット』書評

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、誰の中にもある、許されない衝動を描いた一冊。

 誰の中にでもある抑えがたい、しかし絶対に許されない衝動。
 秋津朗『デジタルリセット』(角川ホラー文庫)はそれを描いた小説である。
 本作は第四十一回横溝正史ミステリ&ホラー大賞に応募された。大賞に輝いたのはこの欄でも紹介した新名智『虚魚』だが、読者賞として『デジタルリセット』も刊行されることになったのである。応募時の題名は「デジタル的蝉式リセット」であった。
 いくつかの時制が混じる形で叙述は進められていく。各章の始めに日付が記されているので、それを確認すれば迷子になることはないはずだ。話の推進役を務める相川譲治が初めて顔を出すのは二〇一八年八月五日の日付となる章である。全体の四分の一程度が過ぎたところでの登場だから推進役にしては遅いが、小説の後半で彼と出会うことになる人物が同じ二〇一八年の日付がある章でその前にもう出てきている。相川譲治にはしばらく会っていない恵美という姉がいる。その家を訪ね、彼は姉がこどもたちと一緒に行方不明になっていることを知る。譲治は恵美がある男性と同居していることを知っていた。その人物ならば姉がどこにいるのか、どうなってしまったかがわかるかもしれない。フリープログラマーである譲治は、自身の専門知識を使って男性の居場所を探し始める。
 譲治の登場以前に、読者には物語の仕掛けが知らされる。中心にいるのは〈青年〉とだけ書かれて初めは素性が明かされない人物だ。二〇一三年八月の日付が打たれた章で、〈青年〉が複数の人間を殺害し、隠蔽工作のために死体を処理している場面が描かれている。彼は、身辺にいる者が自分にとって耐えがたいことをすると、殺害して別の人間になり、別の生活を始めるということをずっと続けていたようなのである。つまり、リセットだ。相手の過ちを赦すのは五回まで。それを越えたら人間関係はリセットされねばならない。
 譲治の姉・恵美も、その犠牲になって殺されていたのである。殺害場面は、極めて温度の低い文章で綴られる。
 ――恵美が青年の気配に気付いて不意に目覚めた。その瞬間、恵美の頭にナタを振り下ろした。切れ味の鋭い黒く重そうな長方形の鉄の板が、恵美の額をサクリと二分していく様子がコマ送りで青年の網膜に焼き付く。右手にほとんど抵抗がなかったことに、青年は心地良ささえ感じた。(後略)
 即物的な描写に徹しているのは、殺人という行為が〈青年〉にとって日常の延長であり、しなければならない課題に過ぎなくて、感情移入の対象ではないからだろう。要る/要らないはこの人物の場合1と0で表される。切り替えがデジタルなのだ。
 この人物の消息と並行して語られるのがデジタル考課の話題だ。人間の価値を要不要の要素だけで考えることの是非について、複数の登場人物が思いを巡らせる。譲治は大学時代に教わった講師のこんな言葉を覚えている。
「デジタル化の流れは効率化を追求する技術の発達に伴う当然の帰結だ。しかし、世の中には効率化が必要な場合と、必要のない場合があることは知っておかなくてはならない」
 ごく単純化して言えば、世の中のすべてをデジタル化、つまり不要なものを切り捨てる方向に変えてしまってかまわないとする考えの究極が〈青年〉であり、それが引き起こす事態を殺人という行為によって象徴的に描いた小説ということになる。情報工学に関する知識が噛み砕かれた形で披露されており、作品から現代が見えてくるという要素もある。作者はおそらく、そちら方面の出身なのだろう。
 ただ、デジタル対アナログと構造を単純化すると見えなくなってしまうものもある。帯に引かれた賛辞の中に「全く感情移入できない行動や考え方にゾクゾクする怖さを感じる」という文章があったが、それはちょっと違うような気がした。
 むしろ〈青年〉は「感情移入できる」から怖いのである。少なくとも私はそうだった。自分の人生において、何もかもリセットしてやり直したいと感じたことは一度ならずある。それは別にすべてがうまく行かないときだけではない。逆に何も破綻など存在せず、このままの日々がずっと続いていくだろうと感じたときなどに、ふっと投げ出したい気持ちが湧いてくることもあるのではないか。自転車で走っているときにハンドルから両手を離してしまう感じ、通勤電車に乗っていて、目的の駅で降りずに終点まで行ったらどうなるか、と夢想する気持ちにそれらは似ている。人間が生きるということは複雑な関係性に自らを委ねるのと同義であるが、すべての糸を断ち切って別の場所でやり直したいという感覚がいつどんなときに訪れるかはわからないのである。〈青年〉はそれをやってしまう。だから怖いのだ。自分がいつかやってしまうかもしれないことを、彼はいともたやすく実行してしまうから。
 古くからのミステリーファンならフリッツクラフトの寓話をご存知だろうと思う。ダシール・ハメット『マルタの鷹』の中で語られる挿話である。フリッツクラフトという男がいる。彼は暮らしに何も不満を持っていなかったが、あるとき突然失踪してしまう。目の前に建設現場の鉄骨が落ちてきた。特に怪我はせず、命に別状はなかったが、それがきっかけになってそれまでの人生を捨ててしまうのだ。この挿話が小説内に置かれている意味は今一つ明らかではなく、それだけに強烈な印象を残す。そこに人生のはかなさを感じる読者もいるだろうし、日常にできた裂け目を幻視することもあるかもしれない。そのフリッツクラフトの挿話を、『デジタルリセット』を読んでいてひさびさに私は思い出した。人間の中にある不可解なものを覗き込んでいるような気持ちにさせる小説なのである。
 小説を最後まで読むとざらっとしたものが残る。ある謎があって、それが解消されるまでを描いた作品なのだが、底のほうに溜まった澱には手がつけられないままで終わるのだ。そこがいいと思う。黒い淀みはたぶん消し切ることができない。それはずっと心の中にある。


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