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連載

椰月美智子「ミラーワールド」 vol.27

【連載小説】変えなければならない。女も男も同じ人間だ。性差で差別があってはならないのだ。椰月美智子「ミラーワールド」#4-3

椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。

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 カッと頭に血がのぼったが、言い争っても無駄だ。
「わたしがムカつくのは、あいつが三百万円ももらうってことよ! そんなのずるいわ!」
 呆れてものが言えなかった。由布子は、自分が百万円支払うことよりも、被害教師が三百万円もらうことのほうが許せないらしい。
「わかった。好きにすればいい」
「……は?」
 不審そうに由布子が顔を上げる。
「好きにすればいい。払いたくないならそうすればいい。おれの意見はもう言ったから」
「なによ、その言い方! 少しぐらい心配してくれてもいいでしょ!」
 逆ギレされても、なんの感情も起こらなかった。映画のなかの出来事みたいに、自分とは関係のないことのようだった。ああ、これが無関心というやつか、と辰巳は冷静に思う。もうこの女のことはどうでもよかった。
「あなたって、ほんっと冷たい人間よね! 家族が困ってるんだから協力しなさいよっ!」
 なにも気にならない。なにも感じない。鳥が近くでぴーちくぱーちく鳴いているだけだ。
「ああっ、どうしたらいいの! ほんっと、男ってイヤだ! みみっちくてセコくて! 先輩教師にお金を請求するなんて考えられないわ! ただの冗談だったのに。おもしろく遊んでただけなのに。こんなに大げさにして!」
 ただの雑音。ただの耳障りな音だ。
「ねえ、聞いてるのっ! なんとか言ったらどうなのよ!」
 由布子がドンッと足を踏み鳴らす。
「ねえっ!」
「……るから」
「は? 聞こえないわ!」
「離婚するから」
 辰巳は言った。
「はあ? 突然なに言い出してんの!」
 辰巳は引き出しから、妻の署名欄以外すべて記入した離婚届を出して由布子の前に置いた。
「バッカじゃないの! 勝手なことして! 一体どういうつもりよっ!」
「あなたと離婚します」
「ハッ、どうやって、食べていくつもり! 一人でやっていけると思ってんの!」
「子どもと一緒に出て行きます」
「シングルファザーで二人の子どもを育てるなんて無理に決まってるじゃない! 採用試験に受かったからって、調子に乗ってるんじゃないわよっ!」
 辰巳が無言で離婚届をさらに押し出したところで、二階から耕太と俊太が下りてきた。
「うるさいよ。お母さんの声、二階までガンガン響く」
 俊太が言う。
「離婚することに決まったわけ?」
 離婚届を見ながら耕太が言った。
「パパが勝手に書いただけよ! ほんっとムカつくわ。あんたたちのことなんて、なにも考えてないのよ。ごめんね、耕太、俊太」
 由布子が子どもたちに無理矢理作った笑顔を向ける。
「お母さん、新人男性教師をいじめてたってほんと?」
 俊太がたずねた。おそらく耕太が俊太に伝えたのだろう。由布子がキッと辰巳を見る。
「いじめてたなんて言葉が悪いわ。遊んでただけ。ただの勘違いよ」
 由布子が明るい口調で言う。俊太が辰巳を見たので、辰巳はしずかに首を振った。
「……離婚したければすればいいと思う。お父さんが決めればいい」
 耕太だ。
「なに言ってんの、耕太。あんた、大学行けなくなるわよ。離婚するなら、わたしは養育費も教育費も出す気ないから」
 ぴーちくぱーちく鳴いているだけと聞き流していたが、こればかりは聞き捨てならなかった。子どもの前でなにを言い出すのか。大学に行けなくなるだなんて、言語道断だ。
「おい、ちょっ……」
「それ、脅しじゃん。お母さんが今言ったことは脅しだよ」
 辰巳にかぶせるように、耕太が言った。
「女ってすぐに脅すよな」
「ああ」
 と、俊太がうなずく。
「ああ、そう! じゃあ勝手にすればいいわ! 今まで一体誰のおかげで生活できたと思ってるのよ!」
「お父さんがご飯作ったり洗濯してくれたからじゃない?」
「はああ? 誰が食費を出したり洗濯機を買ったりしたと思ってんの? その服だって、ぜんぶわたしが働いたお金で買ってるのよ!」
 耕太が憎しみをこめた目で、由布子を見る。
「おれ、国立一本にする。奨学金制度もあるし」
 ごめんな、と辰巳は子どもたちに謝った。離婚すれば、今まで通りの生活とはいかないだろう。
「おれ、バイトするから」
「なにがバイトよ! 耕太、甘いこと言ってるんじゃないわよっ!」
 般若の面のような顔でまくし立てる母親を、俊太は目を丸くして見ている。こんな母の形相を間近で見たのはおそらくはじめてのことだろう。こんな母親を見せたくなくて、辰巳は今日までこらえてやってきたのだ。
「お母さんって、男をバカにしてるよね?」
 耕太がたずねる。
「バカになんてしてないわよ。ただ、女のほうが上だってだけ。生まれ持った性質なんだからしょうがないでしょ。この世の中は女社会で成り立ってる。だから物事がスムーズに回ってるの。男は女に尽くすようにできてるのよ。長い歴史が証明してるじゃない」
「女のほうが偉いって言いたいわけだ?」
「決まってるでしょ」
 耕太が大きなため息をついたところで、
「おれはそうは思わない」
 と、俊太が言った。
「同じ人間なんだから、どっちが上とか下とかないと思う」
「その通りだ、俊太」
 思わず声が出た。俊太がまた辰巳を見たので、辰巳は同意するように大きくうなずいた。おそらく俊太は今はじめて、女男同権について思いをめぐらせたのだと思う。そしてすぐさま正しい答えにたどり着いた。よくぞ気付いてくれたな、俊太。と辰巳は、息子に拍手を送りたい気分だった。
「なに言ってんの! 間違えたことを子どもに教えないでよ!」
 由布子が金きり声を出す。
「そうだ。ほら、あれ、聞いたわよ。原杉中の男子生徒が襲われたんでしょ?」
「関係ねえだろっ!」
 俊太が険しい顔で叫んだ。
「女が男を使って襲わせたって。ひどい話よねえ。あんたたちも男なんだから、よっぽど気を付けなくちゃいけないわ、夜道なんて特に。ああいう事件だって、結局弱いのは男なのよ。観念して、よくよく気を付けないとね」
 俊太の顔は真っ赤だった。
「なんだよそれ! 意味わかんねえよ!」
「男のほうが用心して、気を付けなさいってことよ。隙を与えないようにちゃんとしてないと今回みたいなことに巻き込まれるってこと」
「気を付けてたって事件に遭うことだってあるだろ! それに、なんで男が気を付けなくちゃならないんだよ! 悪いのは加害者だ。被害者に落ち度なんてない!」
 俊太は、つかみかからんばかりの勢いだ。
「俊太の言う通りだ。男がなぜ気を付けないといけないわけ? 悪いのは加害者一択だ。今回の事件で悪いのは、指示をした女と実際に暴行した男でしょ。被害者はなにも悪くない。お母さん、そんなこともわからないで教師やってるわけ? 考え方を改めたほうがいい」
 耕太が強い視線を由布子に送る。
「おれの子育ては間違えていなかったよ。二人ともどうもありがとう」
 辰巳は涙ぐみそうになりながら、耕太と俊太に礼を言った。
「はんっ! バカで浅はかで生活力のない男たちが徒党を組んだってわけね! 勝手にすればいいわ。ここはわたしの家よ。さっさと出て行きなさい。あとでづらかいても知らないから。さようなら」
 そう言って由布子は、引き出しからボールペンを取り出し、離婚届にサインをした。見たこともないような筆圧の文字だった。

▶#4-4へつづく
◎全文は「小説 野性時代」第208号 2021年3月号でお楽しみいただけます!


「小説 野性時代」第208号 2021年3月号


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