未解決事件の聞き込み中、ストーカー被害に悩む女性と出会ったおじさんたちとひよりは――。加藤実秋『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』#3
加藤実秋「メゾン・ド・ポリス」
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加藤実秋さんの大人気警察小説シリーズ最新作、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』が、5月22日(金)に発売されます。
老眼、腰痛、高血圧。でも捜査の腕は超一流のおじさん軍団×新人女性刑事が追うのは、12年前の〈未解決〉名医殺害事件! さらに本作では、退職刑事のシェアハウスの誕生秘話も明らかに!? 刊行に先駆けて、第一話をカドブンで特別公開します!(こちらは「カドブンノベル」2020年4月号に掲載時の内容になります)
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その後も少し話を聞き、礼を言って橘さんに帰ってもらった。
「表現は曖昧になってるが、二○○八年の証言内容と変わりはねえな」
扇子で顔をあおぎながら冷めたコーヒーを飲み、迫田はコメントした。橘さんがいた席に移り、ひよりが頷く。
「ええ。近江さんの知り合いの『他のパネラーさん』は、近江さんが大学病院に勤務していた頃の同僚なんですよね。捜査資料に載っていました。橘さんが最後に見た時の近江さんの様子も、当時の証言と同じ。新情報としては……改めて、近江さんは人格者ってことぐらいですかね。当時も児玉美月が浮かぶまでは、怨恨の線は薄いって読みだったし。児玉さんには会いに行かないんですか?」
「行く。だが、地固めをしてからだ」
表情を厳しいものに変え、迫田が返す。
「夏目さんは? なんで医療フォーラムについて訊いたんですか?」
ひよりに話を振られ、惣一郎はグラスの水を口に運んでから答えた。
「捜査本部は物盗りの犯行と考えていたから、医療フォーラムについては近江さんの行動の確認程度しかしなかったはずだ。捜査が手薄だったり浅かったりした部分に、迫田さんの言う『問題』や『間違い』があるかもしれない」
「確かに。他にもそういう部分が見つかる可能性がありますね」
「ああ。だが、それより引っかかることがある。橘さんの態度だ」
惣一郎が切り出すとひよりは、
「それ! 私も気になってました。はきはき受け答えしてたかと思ったら、シャッター音に驚いたり。おかしかったですよね」
と身を乗り出し、迫田も扇子を動かす手を止めて頷いた。
「ああ。通りにいる時から、きょろきょろしてたしな……なにかあるのか?」
「あるかもですね」
ひよりが同意し、惣一郎も頷いた。
惣一郎と迫田はメゾン・ド・ポリス、ひよりは柳町北署に戻り、夜になるのを待って再度集まった。
青天社は、昼間橘さんと会ったカフェにほど近いビルの七階に入っていた。少し離れたビルのエントランスの陰で見張っていると、午後九時過ぎに橘さんが出て来た。着ているものは昼間と同じだが、バッグは黒革の肩掛けのものに変わっている。通りを歩きだした橘さんだったが少し行くと立ち止まり、後ろを振り返った。念入りに視線を巡らせ、また歩きだす。
「またきょろきょろか。やっぱりなにかあるな」
迫田が言い、エントランスの陰から出た。惣一郎とひよりも続く。
橘さんは繁華街を抜け、住宅街に入った。歩き方は普通だが、時々足を止めたり歩を緩めたりしては後ろや通りの反対側を窺う。惣一郎たちは見失わない限界まで距離を置き、路上駐車している車や自動販売機の陰に身を隠しながら尾行を続けた。
十分ほど歩き、橘さんはコンビニに入った。
「そろそろ声をかけて事情を訊きませんか?」
惣一郎がガラス張りの外壁越しにコンビニの中を覗いていると、隣でひよりが言った。橘さんはプラスチック製のカゴを手に飲み物やパンを選んでいるものの、店のドアが開く度に振り返って見る。その目には、不安と警戒の色がはっきり浮かんでいた。
「まだだ。『なにかある』の『なにか』が、姿を現すかもしれねえ」
返したのは迫田。通りの前後を鋭い目で確認している。
「『なにか』って?」
「男、借金、警察……橘さんの身分照会はしたか?」
「はい。でも、なにも引っかかりませんでしたよ」
ひよりの答えに、迫田はふんと鼻を鳴らした。昼間は汗ばむほど暖かい日もあるが、夜はまだ冷える。ひよりは淡いグレーのパンツスーツの上に薄手のコートを着ていた。
間もなく、橘さんがコンビニから出て来た。あらかじめ通りの後方に移動していた惣一郎たちは、尾行を再開する。
少し歩いて、橘さんは脇道に入った。街灯はあるがしんとして、人通りもない。右手にコンビニのレジ袋を持ち左肩にバッグをかけた橘さんの後ろ姿が、緊張したのがわかった。レジ袋を右手首にかけ、バッグを開けてなにか取り出す。家のカギだろうか。自宅で仕事をするのか、バッグは膨らんで重たそうだ。
橘さんが立ち止まり、同時にこれまで以上に用心深く不安げに周囲を確認した。後方の駐車場から様子を窺っていた惣一郎たちは、頭を引っ込めた。気が済んだらしく、橘さんは通り沿いの建物に入って行った。惣一郎たちも駐車場を出て前進する。
「ここが橘さんの自宅。二階の右から二番目の部屋です」
そう告げてひよりが建物を見上げ、惣一郎と迫田も倣った。三階建てのアパートで、一階から三階まで通りに面して掃き出し窓とベランダが並んでいる。エントランスはあるが、オートロックではない。
惣一郎が厚いカーテンが引かれた橘さんの部屋の窓を見上げていると、ひよりは言った。
「男でも借金でもなさそうだし、誰もコンタクトを取って来ませんでしたね」
「自分自身にやましいことがあって、びくついてるのかもな。たとえば近江さんの事件。隠し事をしていて、特命班や俺らが出て来て『バレる』と思ったとか」
迫田は返し、「どうかなあ」と首をひねったひよりを「行け。部屋に入っちまうぞ」と促した。橘さんは、エントランスの壁に取り付けられた郵便ポストの前に立っている。
肩にかけた橘さんのものより少し小ぶりなバッグを揺すり上げ、ひよりはアパートの敷地に進んだ。驚かさないように気を遣ったのか、ドアが開けっぱなしのエントランスの手前のアプローチで立ち止まり静かに、
「橘さん」
と呼びかけた。が、ひよりの体の脇から見える橘さんは短い悲鳴を上げ、跳ねるように体を揺らして振り向いた。重たい音と軽い音が同時にして、エントランスの床に何かが落ちた。重たい方はレジ袋、軽い方は
「昼間お目にかかった柳町北署の牧野です。驚かせてすみません」
エントランスの手前から動かずにそう続け、ひよりは昼間と同じように警察手帳を出して見せた。
固まったままの橘さんの目が警察手帳、ひより、また警察手帳、と動く。それから大きく息をつき
「驚かさないで下さい。死ぬかと思いましたよ。何の用ですか? 事件のことなら、もう全部話しましたけど」
「申し訳ありません。昼間の橘さんの様子が気になったもので」
「様子? なんですかそれ。まさか後をつけて来たんですか?」
気の強さ全開で問いかける橘さんを、ひよりは両手を体の前に上げて「まあまあ」と落ちつかせようとする。が、橘さんはひよりを見据え、さらになにか言おうとした。
しかしその前に、
「その通りです。橘さんの後を歩きながら、他にあなたを尾行したり見ていたりする人間がいないか確かめていました。今日のところは誰もいませんでした。安心して下さい」
そう言って惣一郎がひよりの隣に進み出ると、橘さんは口を開いたまま固まった。惣一郎は続けた。
「それは防犯ブザーですね。心配ごとがあるなら話してみませんか? お力になれそうならなんでもしますが、橘さんが『必要ない』と言うならすぐに立ち去ります」
「それは」と言う時に、床の上の黄色い物体に目を向けた。さっき橘さんがバッグから取り出したのは、カギではなかった。
「現役に聞かれたくない話なら、牧野はすぐに帰します。私とこの夏目は退職組。ただのおじさんですから」
迫田も進み出て来た。扇子の先で自分と惣一郎を指し、笑って見せる。沈黙があって、橘さんは肩の力を抜き、また大きく息をついた。
「どっちみち、なにもしてくれないクセに」
独り言のように言ってから顔を上げ、橘さんはこう続けた。
「二カ月ぐらい前から誰かに尾行されたり、じっと見られたりしています」
「ストーカー被害に遭っているということですか? 相手が誰かはわかっていますか?」
ひよりが問うと、橘さんは首を横に振った。表情は険しいが、防犯ブザーとレジ袋を拾ってエントランスから惣一郎たちの前に出て来た。エントランスの天井に取り付けられた蛍光灯の明かりが、アプローチも照らしている。
「足音や人影は何度も確認しているんですけど、はっきり見る前に逃げられちゃうんです。そこの街灯の近くに立ってることもあって、昨夜もそうでした。明かりが届かないギリギリの場所にいるのが怖いし腹も立ちます」
言いながら通りを指し、ひよりが振り返ろうとするとこう続けた。
「それに十日前には、留守中にアパートの部屋に侵入されました」
「侵入!? 警察には通報したんですよね?」
「もちろん。でも、部屋をざっと見て『パトロールを強化します』だけ。ストーキングが始まってすぐにストーカーの窓口に相談もしたけど、何にもしてくれません。だからもう、自分でどうにかするしかないなって」
言いながら橘さんは防犯ブザーをこちらに見せ、バッグからスプレーボトルを出した。ボトルには、「催涙ガス 一発撃退!」と赤く大きな字で書かれている。
「それはおかしいですね」
声のトーンを落とし、ひよりが言った。
「おかしい」には、「警察の対処」に対してと「あなたの話」に対しての二つのニュアンスがあることに惣一郎は気づいたが、橘さんは「警察の対処」の方だけを受け取ったらしく、
「でしょ?」
と返して顔を背けた。振り向いて、ひよりがこちらを見た。「現役として、見逃せない案件です」とでも訴えているような眼差しだ。
「わかったよ。こっちも捜査しよう」と心の中で言い、惣一郎は首を縦に振った。隣でふんと、迫田が鼻を鳴らす。こちらは「当然だ」の意味か。
4
礼を言い、ひよりは生活安全課を出た。階段で二階に降り、廊下を進んで刑事課の部屋に入る。同じ部屋に他の課もあり、たくさんの事務机と椅子が並んでいるが、午後九時近いので人影はまばらだ。
通路を進むひよりの目に玉置の姿が映った。奥の一角に置かれた円形のテーブルにつき、ノートパソコンのキーボードを叩いている。向かいには、玉置より少し若い男もいた。打ち合わせや来客用のスペースの一つを特命班が使っている。
「お疲れ様です」
歩み寄って声をかけると、玉置が顔を上げた。
「ああ。お疲れ様」
若い男も顔を上げたので会釈をし、ひよりは玉置に向き直った。
「状況はいかがですか?」
「これからだね。ところで、今日迫田さんと夏目さんと橘麻里さんに会ったそうだね。追加で確認したいことがあって夕方橘さんに電話をしたら、『別の刑事さんと会った』と言われて驚いたよ」
表情も話し方も穏やかだが、言葉の端々に
「あの屋敷、メゾン・ド・ポリスだっけ? あそこがどんなところで、迫田さんたちが捜査協力をしてるって話は新木課長から聞いてるけど……で、なにかわかった?」
「ええ。橘さんの様子がおかしかったので事情を訊いたら、『二カ月ほど前からストーカー被害に遭っていて、留守中に自宅に侵入されたこともある』とのことでした。『警察に届けたけど何もしてくれない』とも言われたので、いま生活安全課で確認して来ました。確かに届けは出ていますが、『尾行もじっと見られているのも本人の主張だけで、相手の姿は誰も見ていない』『侵入についても現場を調べたが、盗難や監視カメラの設置などの被害はなく、明確に物が動かされているわけでもない。玄関は施錠された状態で、こじ開けられた形跡もなかった』そうです。でも生活安全課の許可は得たので、少し調べてみようと思います。橘さんは
同じことをこのあと迫田に報告するつもりだ。警察の身分照会センターに登録されているのは運転免許の有無と犯罪歴、指名手配をされているか否かだけなので、ストーカーの件はヒットしなかったのだ。
「確かにそうだ」と頷いてから、玉置は続けた。
「でも、近江さんの事件とは無関係だね」
そして、視線をパソコンの液晶ディスプレイに戻した。
「それはそうですけど」
取り付く島もない言葉に面食らいひよりが返すと、玉置はもう一度こちらを見た。
「迫田さんたちと牧野さんが多くの事件を解決したというのは知ってるし、元副総監に
報告するのは私たちだけ? まあ、所轄に本庁の捜査情報をべらべら話せないのは当然だけど。ひよりの胸にもやもやとしたものが湧く。しかし「元副総監=伊達」で、ちょうど訊きたいことがあったのと、スマホが鳴って若い男が席を外したので、ひよりは気持ちを切り替えて問うた。
「わかりました。ところで、伊達さんとはどういうお知り合いなんですか?」
「伊達さんはなんて言ってた?」
「知り合いだけど、どんな知り合いだったかは忘れた、みたいな」
ひよりの答えに玉置は声を立てて笑った。それでこの話は終わったような空気になり、ひよりは「失礼します」と告げて、その場を離れた。
通路に戻り刑事課に行った。こちらもがらんとして、席にいるのは今夜の当直でひよりの上司の
「お疲れ。あそこに飲み物とお菓子があるぞ。さっき、特命班の玉置さんが差し入れてくれた」
自分の席に着くなり、隣席の原田が声をかけて来た。がっちりした体をダークスーツに包み、髪は五分刈りだ。「あそこ」と指した窓際の棚の上には、コンビニの大きなレジ袋が載っている。
「そうですか」
「俺らにまで気を遣ってくれて、いい人だよな。特命班は注目度が高い部署だし、ノンキャリアだけど三十歳で警部、しかも主任だろ。『デキる男』は違う、ってか?」
がははと笑い、原田はひよりの肩を叩いた。その強すぎる力に顔をしかめながら、ひよりは
「それはどうかなあ」
気は利くし、そつがない。でも上っ面だけっていうか、計算の匂いを感じる。しかも微妙に上から目線。今の伊達さんの件だって、質問に質問で答えるって失礼じゃない? まあ、出世コースだし、階級も上だし、当然と言えば当然で、それが警察組織の中ではデキる男なんだろうけど。そう思い、さっきのもやもやが
社会的な立場や年齢の違いはともかくとして、上っ面とか計算とかとは無縁の玉置とは対極の男だ。常に本音でストレート。それでもどこか謎めいていて、なにを考えているのか読めない。昨冬にメゾン・ド・ポリスのおじさんたち共々巻き込まれた事件で惣一郎の生い立ちが明らかになり、少しは謎や考えに近づけた気はするが、これ以上進むと彼との間のバランス、なにより自分の気持ちがおかしなことになりそうで
「玉置さんとはほぼ同い年だから、『俺もがんばらなきゃな』と思ってるんだよ。
訊いてもいないのに原田が語りだした。「美玲ちゃん」は、原田の彼女で二十五歳のOLだ。ある事件を捜査した際に、ひよりも会ったことがある。
「結婚とか? 付き合いも長くなりましたもんね」
「そうそう。最近無言の圧力を感じるし俺もそのつもりなんだけど、いまいち度胸がなくてさ。だから自分に
そう言って原田は自分の机に目を落とした。ひよりも見ると、机上には参考書らしき本が開かれている。
「巡査部長に挑戦するんですか? がんばって下さい」
心からの言葉だった。しかし原田は眉を寄せ、こう続けた。
「ありがとう。でも俺、勉強って昔から本当に苦手でさ」
そして参考書を上にずらす。現れたのはコミック雑誌。布地の面積が極端に少ない水着をまとった、女の子のグラビアページが開かれている。
「なにをやってるんだか」
思わず突っ込み、ひよりは迫田に電話をするために席を立った。後から、「冷たいこと言うなよ~。長い付き合いじゃねえか」と言う原田の声が追いかけて来た。
(つづく)
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