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連載

冲方丁「骨灰」 vol.31

お骨を焼いたみたいな臭いに悩まされるの。 冲方丁「骨灰」#4-7

冲方丁「骨灰」

※本記事は連載小説です。

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 そうささやき、にっこりした。
 あなたもわかるでしょう? と言外に尋ねられたかのようで、光弘は落ち着かない気分にさせられた。介護士がげんそうにちらりと光弘へ目を向けた。どうやら今度は、光弘のほうが怯えたように見えたのだろう。
 女性が手を伸ばし、光弘の腕を軽く叩いた。
「玉井の方が、お守りをくれるから、大丈夫」
 その言葉で、鞄の中にそれが入っていることを思い出したが、むろん光弘が訊きたいことではなかった。気づけば、妙に動悸がしており、さっさと切り上げたくて仕方なくなっていた。
「義一さんは今、どこにいらっしゃると思いますか?」
 光弘が改めて尋ねた。だがそこで、女性の顔から、みるみる微笑みが消えていった。
「ねえ、この方、どなた?」
 知らない人が目の前にいることに困惑しているという様子で、介護士に尋ねた。
「旦那さんのお仕事の関係の方よ」
「あの人なら、どこかにいるんじゃないかしら」
 女性が、自分の近くにいるはずだというように周囲を見回し、
「だって、すぐに来るって言ってたから」
 そう言って、光弘に微笑みかけた。
 光弘も笑みを返しつつ、なんと続けていいかわからなくなり、介護士に目配せした。
 介護士がうなずき、立ち上がりながら女性の肩を優しく撫でた。
「ありがとう、めぐみさん。それじゃ私、この方をお見送りしてきますね」
「はい、はい。うちの人に会ったら、いつ来るか訊いておいて下さい」
「ええ。そうします。ありがとうございました」
 光弘はどっと疲れを覚えながら、介護士について娯楽室を出て、受付に戻った。
「だんだん悪くなっていて。今の会話も、すぐに忘れてしまうと思います。面会の際は私どもがついていたほうが良いかと」
 聴取にならないことがわかったので、もういいとは言わず、名刺を差し出した。
「はい。原義一さんが現れたら、ぜひご連絡下さい」
 光弘も施設の電話番号を携帯電話に入力し、礼を述べて外へ出た。
 玉井工務店に続いてまた一つ、原義一に関する連絡網を作ることができた。そのことには満足すべきだが、おそらく期待薄だろうという思いを拭えなかった。
 十分な蓄えがなければ施設に入所できないのだ。夫婦のうち片方だけが限界だったのだろう。家も何もかも失ったと玉井芳夫が言っていたのだから。
 身につまされるような思いを味わいながら駅に戻ると、建物の片隅でうずくまっている薄汚れた男性に目が行った。
 原義一ではないか──咄嗟に思ったが、違った。顔も体型も違う。何度も画像で見ており、すれ違っても見過ごさず、他の誰かと間違えない自信があった。
 それでもしばし、その男性を見つめてしまった。
 すぐに来るって言ってたから。
 だが本人はああして行き場を失ってしまっているのだ。それで地下の穴の底に入るしかなかった。そう思うと急に不安が込み上げてきて、慌てて男性から目を逸らした。
 なぜ自分が不安にならねばならないのか。そう思うが、実のところ理由はわかっていた。沈んでいく者に引きずり込まれたくないと考えているのだ。不幸な誰かには磁力があって、近づけば同じ不幸へ引き寄せられると心のどこかで思ってしまっている。
 光弘は、そんな自分を自覚したことに、意外なほど動揺させられながら足早に駅に入った。
 電車に乗って渋谷駅に戻ったときにはその動揺も静まっていたが、これから会う人物に見透かされるのではという不安がやけにつきまとった。
 約束の時間までだいぶ余裕があったので、チェーン店の屋に入り、早めに昼食をとった。蕎麦をすするうちに気分も落ち着いていった。不安や動揺といった個人の感情を、調査を徹底させるという使命感が押しやってくれるのがありがたかった。組織に所属することのメリットの一つだ。
 小規模な経営にこだわった父が生涯得ようとしなかったメリット──家も何もかも失った。
 蕎麦屋から出るとき、なぜかそれら二つのことが、いっぺんに脳裏をよぎった。
 とたんに何か嫌なものが──不安や恐怖心といったものが、腹の底から染み出てくるのを感じ、口の中に苦味を覚えた。鼻は──あの乾いた臭いを嗅ぎ取っていたが、あえて意識しないようにしていた。
 馬鹿言え。父は家を失ってはいない。ホームレスにだってなっていない。
 この自分だって、家を失うおそれなんてないんだ。
 光弘は、五反田からずっとつきまとう不安を追い払うため、自分自身にそう指摘した。
 灼熱の空気の中、駅前の交差点を渡り、工事現場の防音壁に沿って移動しながら、ふいにまた乾いた異臭を感じ、
 ──この辺りの地下か。
 暗い穴底にいた、原義一のことを思い出した。

▶#4-8へつづく


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