遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#108〈前編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」
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※本記事は連載小説です。
これまでのあらすじ
閉ざされた城内での殺し合いに参加した遣唐使の井真成は、仲間を得て試練を克服する。かつて城内では、人間を贄に使った呪法「蠱毒」が行われ、自分たちの殺し合いもまた蠱毒であったと告げられた。死闘を生き抜いた十二名を含む四十九名は、杜子春と共に旅に出る。一行が立ち寄った姜玄鳴の屋敷で、真成は呼び出され、この地に伝わる太公望の釣り鉤を探すよう命じられる。さらに姜一族の南家・姜竜鳴に面会し、竜鳴の娘・鳴花と共に常羊山に向かうことになった。時代は遡り、西楚の覇王・項羽は始皇帝の陵墓に侵入する。
二十四章 青 壺
(四)
眼の前には、始皇帝の
柩の周囲にも、自分の周囲にも、始皇帝が集めた財宝が置かれ、
しばらく前に、
死を覚悟して抵抗することもできたが、二〇人に余る兵士と項羽を相手にして、命があるとも思えなかった。
「松明を、一本置いてゆく。消えるまで、宝物を眺めて楽しんでおけ」
それが項羽の最後の言葉だった。
“わかった、あなたの臣下となりましょう”
そう口にしようとも思ったのだが、命惜しさにそれを口にしたと、項羽にはすぐに見すかされてしまうだろう。項羽の意志は変るまい。
命乞いをしても、
“見苦し”
そのひと言で切って捨てられ、死を早めてしまうことになるだろう。
自分の命には、今はさほど執着はない。
ただ、ひとつだけ、やり残していることがあった。
それは、項羽にも言ったが、ひとりの女を救ってやることだ。惜しくない命ではあるが、それをやりとげるまでは、生きていたかった。それさえ済めば、自分が生きるか死ぬかは、もはや興味の外であった。むしろ、すみやかに、この生を終えることを望んでさえいる。
そのやり残したことを済ませるため、自ら死を選ぶことこそしないが、生きてここを出てゆく算段をする気力が湧いてこない。
あれを見たからだ。
項羽が去ってから、念のため
腕ならば入りそうな隙間が岩と岩の間にはあるものの、とても、
兵たちにやらせたのであろう。項羽ならば、兵を百人ほども残し、さらに念入りに、土を
そのために、塞がれた羨道。
財宝を守らせるため、
もう、自分はここを生きては出られまい──
その覚悟をしている。
もう、ここでよいか。
始皇帝が死に、項羽と
始皇帝の死に顔も見た。
こうなってみれば、始皇帝も哀れな男だったのだろう。
死を激しく恐れる、気の小さな男。
自分は、その始皇帝を騙してやったのだ。
今、こうなってみると、始皇帝に、ここまでのことを自分がする価値があったのかどうか。
あと、残っているのは、女のことだけだ。
自分は、あの女を愛していたのだろうか。
そうだろう。
そうだろうな。
だから、自分は、あの女を救うてやろうと思っているのだ。
この自分以外、いったい誰があの女を救うてやれるのか。
そうだ。
救わねば。
そのためには、まず、生きることだ。生きてここから出てゆかねばならない。
状況がどれほど絶望的であっても、生き残るために、動こう。
絶望なら、これまで、何度となく味わってきた。そして、それをくぐってきた。
まあ、いい。
哀れな女のことを思っていたら、少しずつ気力がもどってきた。
ともかくは、生きるために何かをすることにしよう。
何かをしなければ、何ものにも出会えないからな。何もしないで死ぬよりは、何かをしながら死のう。
それでいい。
三日や四日は、死ぬことはあるまい。
水なしでも、七日くらいは生きてゆけるだろう。いざとなったら、羨道に羊の
どうせ、自分はもう、人の肉を喰らっているのだ。
そして、人の屍体は、剣などの武具を身につけているはずだ。
まずは、生きることを考えよう。
そのために必要なのは、灯りだ。
今、燃えている松明の炎は、あと半刻も持つまい。そうなったら、ここは真の闇となる。ひとまず考えるべきは、灯りのことだ。何か、燃えるものを捜さねばならない。
青壺は、ようやく立ち上がった。
どこかに、人魚の
この墓室を照らす灯りのための脂だ。一度火を
短くなった松明を手にして、歩く。
この部屋の宝物をあらためて見るためだ。
さっき、宝物を眺めた時に、何かあったはずだ。
ここにやってきた時、眼の隅にそれを見て、気にかかったもの。妙な違和感だ。どうして、ここに、こんなものがあるのかと、その時そう思ったはずだ。
灯りで、宝の山を照らしながら、動いてゆく。
何が気になったのか。
それが、ことさらにきらびやかであったとか、黄金や宝石がちりばめてあったとか、そういうことではない。
(後編へつづく)