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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.3

徳兵衛の心配の種は子供たちだけではない。勘七の両親のことも気掛かりで…。#1-3

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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「まったくこの家も、ずいぶんとそうぞうしくなりましたねえ」
 ふたりが座敷を去ると、入れ違いにおわさが入ってきた。頰も腰回りも年相応にふくよかな女中は、息子のぜんぞうとともに、徳兵衛の世話をしている。
「ことに昼を過ぎると、このありさまですからね。まあまあ、よく声が響くこと。にぎやかにかけちゃ、りようごくひろこうですら敵いませんね」
 ぼやきながら、主人の前に昼餉の膳を置いた。
 戸口に近いひと間は、午後になると、十五人の子供の手習部屋となる。徳兵衛の座敷からは離れているのだが、かぎがたに曲がった廊下を伝って、声は存分に響いてくる。
 その声が、まるでかき消えるように、ぴたりと静まった。
「おや、お登勢さまが、お見えになったようですね」
 手習師匠は、徳兵衛の妻、お登勢である。
「それにしても、ご隠居さまとお登勢さまが、こんなすいきようをはじめるなんて。『しま』にいた頃は、夢にも思いませんでしたよ」
 徳兵衛は、巣鴨町上組に店を構える糸問屋、嶋屋の六代目主人であった。
 去年の三月晦日みそかに隠居して、巣鴨町の北に広がる巣鴨村に、この隠居家を構えた。
 気楽なひとり住まいは徳兵衛の望みであったが、妻が嶋屋に留まったのは、頼りない嫁のかわりに内儀の役目を担うためである。お登勢もまた表向き、大内儀の座は退いたものの、嫁のつつかが即座に改まるはずもなく、手習指南を終えると嶋屋に帰っていく。
 手習師匠は、若い頃の夢だった──。お登勢はそう言って、指南役を引き受けた。
「さすがはお登勢さまですねえ。野良猫さながらの子供たちが、まるで大人しくなって」
「まあ、あれは、愛想がないからな。あの子らにしてみれば、少々怖いのかもしれんな」
 何かと口うるさい徳兵衛と違って、やみに叱りつけることはしないが、喜怒哀楽のたぐいが顔に出ないだけに、妙に威厳がある。子供らも自ずと背筋がぴんと伸び、お登勢先生の前ではなかなかに気が抜けないと、ぼやく声も耳に入る。
 とはいえ、気移りしやすいのは子供の性分だ。お登勢でさえ、長らく抑えつけてはおけず、ふたたび、わあ、きゃあと、騒々しい模様に逆戻りする。
「今日は、お作法からはじめるそうですよ」
「とても作法を教えておるようにはきこえんが」
「おやつの煮豆を使って、はしの手ほどきをなされると。あの子たちのおぎようときたら、まったく目も当てられなくて。正しく箸の使える子は、ほんのひと握りですからね」
 この手習所では、昼餉とおやつが出る。満腹にしては手習いにさわりが出るからと、順は逆にして、昼時におやつを、手習いを終えてから遅い昼餉をいただく。家では満足に、晩飯にありつけない子供もいて、早い夕餉の意味もあった。
 おやつは駄菓子も多かったが、いちばん人気はおわさが拵える、舌が溶けそうなほどに甘い煮豆である。大好きな煮豆のために、不慣れな箸と格闘する子供らの姿が浮かび、ついくちもとゆるんだ。
 おかげで主人の膳にもひんぴんと煮豆が載り、今日もまた膳の真ん中を陣取っていた。
「せっかくの秋の膳だというに、の姿を見ると、何やら風情ががれるな」
「何かおっしゃいましたか?」
 いいや、といなし、箸をとる。びたしに、豆腐のしめじあんかけ、ぶかの味噌汁と秋らしい彩りだ。おわさは料理上手で、献立も気がいている。煮豆ごときで機嫌を損ねるつもりはない。
「組場の昼餉は、調ととのえたのか?」
「はい、ご隠居さまのお指図どおり、先に運ばせました」
「よろしい、なにせ大食い娘がおるからの」
「おうねでございましょう。あの子の食いっぷりときたらまあ、うちの善三ですら敵いませんよ」
 組紐の仕事場には、西の座敷と、その隣の納戸をあてている。
 勘七の母、おはちと、じようしゆうりゆうから呼び寄せた、若い職人がふたり。糸割りやへいじやくなどを担う下働きがふたり。五十六屋の五人は、いずれも女子である。
 さらに今年から、見習いが四人増えた。いずれも参詣案内に関わっていた子供たちで、上は十一歳と十歳、下のふたりは八歳と、職人修業を始めるには早過ぎるのだが、午後は皆と一緒に手習いをさせて、午前のみ修業をさせることにした。
「子供らの面倒は、おうねが見ておるのか?」
「いえ、面倒見のいいのは、むしろ姉のおくにですね。姉さんらしく、はしが利いて世話好きです。妹のおうねは組紐を始めると、まわりが見えない性分で。仕事の速さばかりは折り紙つきですがね」
「まあ、おうね自身、まだまだ子供であるからな。職人として不足がないだけでも、よしとせねばな」
 桐生のふたりは姉妹であり、姉のおくには十七、妹のおうねは十五である。桐生は絹の産地として名高く、機織りをはじめとして絹をあつかう職人も多い。若い姉妹も幼い頃から、組紐師である母や祖母の仕事ぶりをながめ、職人修業と同様に、自ずと技を盗みさばきを真似てきた。歳に似合わず、すでに腕前は申し分ない。
「で、おはちはどうか?」
「どう、と言いますと?」
「ほれ、亭主が帰ってきて浮ついておるとか、あるいは物思いにふけるとか、何か変わったようすはないか?」
 そうですねえ、とふっくらした頰に手を当てて、目玉を上に向ける。
 徳兵衛自身が、組場に足を向けることは滅多にない。相談があるときは、居間に呼びつけるのがもっぱらだった。なにせ十歳の男の子を除けば女ばかりであるから、居心地が悪いとの理由もある。対して話し好きなおわさは、暇を見つけてはまめに顔を出し、女同士のおしゃべりに興じる。組場のことなら、おわさにきくのが早道だった。
「そりゃあ、ご亭主が戻った折は、いかにも嬉しそうで……ですが落ち着いてからは、特には。いつもどおりの、おはちさんに見えますがね」
「そうか、いつもどおりか……」
「何か、気掛かりでもございますか?」
「いや、うん、さほどのことではない。気にせずともよいわ」
 疑うような眼差しが、ちらと注がれたが、年期の長い女中だけに、おわさもその辺はわきまえている。深追いはせず、調子を変えた。
「人を増やすにしても、ぜまになりましたからね。新しい仕事場のしんが先になりますかね」
「うむ、そちらは今年のうちにをつけねばな」
 商い事なら何らのちゆうちよなく、即座に判じられるというのに、おはち夫婦のことはまことに気が重い。
 他者の気持ちを推し量るのは、徳兵衛にとってもっとも苦手とする領分だった。

▶#1-4へつづく


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