menu
menu

連載

王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」 vol.11

【連載小説】言い争いになった彼女は、妊娠中で住む家が無くなりそうで身寄りも無かった。 王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」#6-2

王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」

※本記事は連載小説です。
>>前話を読む

 ひめが涙をこぼしながら盛大に腹を鳴らしたとたん、言い争っていたユキとバール女の声がぴたっと止まった。
「えっ、もしかして今の、腹の音?」
 バール女が言う。姫香はもう恥ずかしいのと悲しいのとおなかいたのとで、気を失ってしまいそうだった。熱いごろごろした石の塊のようなものが喉元までせり上がってきて、涙がどんどん溢れてくる。だめだ、だめだ、泣いちゃだめだと自分に言い聞かせる。められることの少なかった姫香の人生で、唯一と言っていい勲章は子供のころに周りの大人に何度か言われた『姫ちゃんは大人しくて泣かない、いい子だね』だったのだ。ここでみっともなく泣いたら、その最後の「いいところ」まで失ってしまう。
「わっ、ちょ、泣いてるじゃん。大丈夫?」
「あなたが怖い声を出すからですよ。姫香さんは繊細なお嬢さんなのよ」
「は? ババアがキンキンわめくからだろ」
「ご、ごめんなざい」
 みっともなくかすれた声で、姫香はなんとかそれだけ絞り出した。はなすすり、袖で涙を拭く。でも、まだ止まってくれない。
「いや、あんたに謝られても……何謝ることあんの」
「そうよ姫香さん。あなたはなんにも悪くないわ」
「あ……そうだほら、ピザ食べなよピザ。腹減ってんでしょ」
 バール女がやっとピザの箱のふたを開けた。ふわっ、と、かすかな湯気と共にピザ独特のあのなんともいえない香ばしいこってりした匂いが漂ってくる。ぐいっ、と箱を目の前に押し出され、姫香は辛抱たまらず一切れ手で摑み、思い切りかじりついた。
(おいしい……)
 冷め始めていてぬるく、チーズも一番おいしいトロトロのタイミングは過ぎていたが、ピザの濃いしょっぱさ、油っこさ、生地の炭水化物は一気に姫香の心と身体からだを駆け巡り、気持ちを落ち着かせてくれた。
「まあ、こういうものですの、ピザって」
 ユキ江が目を丸くする。
「ピザ見たことないの? なんなの、あんたら。すっごいヘンだね。しんせきにしちゃ似てないし」
「あら、あたくしたち親戚ではありませんのよ」
「えっ、じゃあ何」
「姫香さんはうちのお手伝いとして働いていただいてるの」
「お手伝い? メイドさんってこと? うわー、ホンモノ初めて見た」
「あなたはお仕事は持ってるの」
「これで働けるわけないでしょ。一応、休職中ってことにはなってるけど収入はなし。インストラクターやってたんだ。駅前の『メガトン』ってスポーツジム」
「じゃあ、旦那様のお仕事は?」
 バール女は急に黙り込み、ピザをわしづかみにすると二切れ重ねていっぺんに食いちぎった。
「まあ、お行儀の悪い!」
「うるっさいなあ。……いないよ、旦那なんか」
「ええ? でも、お腹に赤ちゃんがいるじゃないの。その子の父親はどうしたの?」
「あたしが知りたいよ!」
 ばん、とバール女が床を叩いた。姫香がピザをくわえたままびくっと肩を揺らす。
「あたしが知りたいよ……」
 部屋の中が急に静かになる。
「……そういえば」
 ユキ江がピザをひときれ手にする。
「あなたのお名前を伺ってなかったわ」
 バール女はピザの耳だけ残して箱に戻すと、コーラのペットボトルを開けた。
「……ヨーコ」
「ヨーコさん。差し出がましいようだけど、あなた、仕事もない、旦那さんもいないで、どうなさるおつもり?」
「ぜんぜんわかんない。この部屋も追い出されるし、金もないし、ホームレスかな」
「面白くない冗談だわ」
「冗談なんかじゃないよ。マジでそうなるの。先のことなんか知らないよ。もう寒くないし、野宿初めてじゃないし。いざとなったらどっかの病院に勝手に押し入って産んでやる」
 コーラをぎゅーっと音がするほど勢いよくあおって、ヨーコは大きく溜息をついた。
「まあ……だめよ、いけないわそんなこと。どれだけ危ないことかは分かってらっしゃる?」
「じゃあばーさんがなんとかしてくれんの?」
「それは……」
「何もできないんでしょ。なら口出ししてくんなよ。よくいるんだよね。うざいんだよ。心配するふりして説教したいだけ。こっちの抱えてる悩みなんてほんとはどうでもいいんだ。あたしみたいなバカ女に偉そうなこと言いたいだけ。それでスッキリするんでしょ」
 そっぽを向きながらヨーコがそう言うと、ユキ江はきっとまなじりをり上げた。
「あたくしをあまり見くびらないでほしいわ。ただの説教くさい老人と思われるのは心外よ。身寄りのない妊婦を見て放っておくような薄情者ではありませんわ。ヨーコさん、あなた、あたくしのお家にいらっしゃい」
「はあ?」
 ヨーコの大声にまたびくっとしながら、姫香が二切れ目のピザをたいらげた。

「えっ……家って、これ?」
 門を入ってきし邸を見上げるヨーコに、姫香はひそかに心の中で(わかります)と言った。
「ここ、人住めるの? はいきよじゃん……?」
 ヨーコの荷物を詰めたボストンバッグを持って、姫香は一番最後に屋敷の中に入った。なるべく、ヨーコの近くに行かないようにする。
「うわっ、床ジャリってるし! きたねー! ほこりっぽ! いやこれ絶対胎教に悪いって!」
 大騒ぎしてあちこちきょろきょろしながら、それでもヨーコはものじせずにどんどん屋敷の中に入っていく。
 自分とはまるで違う人間だ……と姫香は思わず遠い目をしてしまう。ああいう、ギャルというのか、ヤンキーというのか、そういう人が存在することはテレビなどで知っていたけど、実物をの当たりにするのは初めてだった。しかも、妊婦のギャル。
「いやこれ寝れる部屋あるー? どこもすげー散らかってんですけど!」
「ならお片付けすればいいのよ」
「やりたくねー……埃吸いそう。マスクとかある?」
「あ、あの」
 ヨーコとユキ江からたっぷり三メートルは離れた位置で、頑張って声を張り上げる。
「わ、私、片付けします。掃除もします」
「え、いいの? あ、でもメイドさんなんだっけ」
「姫香さんはあたくしのお手伝いであって、ヨーコさんのお手伝いじゃありませんわよ」
「いいじゃん、どうせ同じ家でしょ。あたしもあんまりしゃがんだり立ったりできなくなってきたしさー」
 丸いお腹をでるヨーコを見ながら、姫香は冷や汗が出てくるのを必死に止めようとした。妊婦。妊婦は怖い。あの丸いお腹の中に、壊れやすくて大事なものが入っている。自分はがさつで周りが見えないから、あの人たちに近づいてはいけない。絶対に。絶対に。
 嫌なことを思い出さないように目をぎゅっとつぶって頭を振ると、どこからか、ドンドン、という音が聞こえているのに気付いた。玄関のほうだ。
「あ、あの、何か、誰か、来てるみたいです……」
「あら、郵便か御用聞きかしら。ちょっと見てきてくださる?」
 姫香は頷いて、おそるおそる玄関の方に戻った。
 りガラスの戸の向こうに、人らしきシルエットがぼんやり浮かんで見える。
 恐る恐る戸を開けると、そこには顔色の悪い、三十がらみの瘦せた女の人がお面のような笑顔を浮かべて立っていた。
「恐れ入ります、ワタクシ、スマイルパワージャパンの田澤と申します! 岸ユキ江さまはご在宅でしょうか?」

▶#7-1へつづく
◎第 6 回全文は「カドブンノベル」2020年8月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年8月号

「カドブンノベル」2020年8月号


おすすめ記事

MAGAZINES

カドブンノベル

最新号
2020年9月号

8月10日 配信

怪と幽

最新号
Vol.004

4月28日 発売

小説 野性時代

第201号
2020年8月号

7月13日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP