menu
menu

連載

王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」 vol.6

「この子はあたくしが雇ったお手伝い」。ポンコツとして生きてきた姫香に思いもよらない転機が。王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」#3-2

王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」

※この記事は、期間限定公開です。

>>前話を読む

 声の聞こえるほうに向かうと、そこはキッチンのようだった。やはりここもとても広くて、一度リフォームが入っているのか屋敷の外見や玄関より全体的に床も壁も新しい。しかし物で溢れているのは同じで、シンクの中にはなぜか枯れた植物の植わった鉢植えがぎっしり置かれ、鮮やかなオレンジ色で塗られた大きなシステムキッチンはコンロの上に空の金魚鉢が置いてある。なんだか悪い夢みたいな光景だ、と姫香は思った。
「お湯を沸かしてちょうだいな。一休みしましょ」
 大きなテーブルの上に、お鍋をするときに使うようなカセットコンロとやかんが置いてあった。キッチンのコンロは使えないようだ。姫香はおずおずとやかんを手にし、シンクで鉢植えをどうにか隅におしのけながら水を入れ、カセットコンロの上に乗せた。
「あ……」
「どうしたの? 火をつけて沸かしてちょうだい」
「あ、あの、これ、やったことなくて……」
 家ではお湯を沸かすのには電気ポットを使っていたし、料理は母親まかせだった。姫香は初めて、自分がカセットコンロも使えない人間なのに気付いてしまった。
「あらそう。こうやるのよ、見てらっしゃい」
 しかしユキ江はそれをばかにする風でもなく、小さい手でコンロのつまみをぐっと押しながら回し、三回目で着火に成功した。
「少し力がいるから、できればお若い方にやってほしいの。お願いして大丈夫かしら?」
「は、はい。……あの、練習してもいいですか」
「もちろん、どうぞ。やかんは逃げやしませんから」
 姫香はおそるおそるつまみを元に戻し、おそるおそる、ユキ江がやっていたようにぐっと力を入れて押しながら、回した。
 ぼっ、と、一度で火がついた。
「まあ、すごい。やっぱり力が強い人はいいわね。すてき」
 すすけたやかんの下で、カセットコンロの炎が青く燃えている。成功した……しかも一度で。それは、姫香の人生にはあまり起こったことのない結果だった。
「あの……わたし、ここで働くって、ほかに何をすればいいんですか」
「そうねえ……まずはお買い物かしら。お茶やお菓子が切れてしまうのがわずらわしいから。お食事はそんなに気を使わなくてもいいわ。そんなにいただかなくても大丈夫なですから。あとはお洗濯とお掃除かしらね。見ての通り、広いお家でしょう? きれいにするには人手が必要なの」
 つまり、だいたいの家事全般ということらしい。不安だ。しかし、カセットコンロは着火できた。だから、他のこともうまくいく可能性はあるんじゃないだろうか……。姫香の頭に、めったにない楽天的な考えがわいてくる。
 やがて、やかんが音を立てて沸騰をしらせた。火を止め、ユキ江に言われた通り食器棚からの模様のついたカップを二つ取り出し、そこに湯を注ぐ。
 椅子に座り、向かい合ってすする。何の味も付いていないけれど、なぜかとてもおいしく感じた。
「あたくしね、本当は結婚していたの」
 ユキ江が唐突に言った。
「とても昔よ。許嫁いいなずけがいて、その方に嫁いだの。そうなることは子どもの頃から決まっていたし、あたくしももちろん分かってました。けどね……お式を済ませて、婚家へ行って……そこで生まれて初めて、自分のお家以外の場所で寝泊まりすることに気がついたの。もう生まれ育った家には帰れないんだって。そう思うと急に悲しくて辛くなって……その夜は一晩中泣いて泣いて、泣き明かしていたわ」
 ユキ江は溜息を漏らすように笑った。
「夫となった方はね、いい方だったのよ。毎日泣いて暮らすばかりで何もしない花嫁をずいぶん気遣ってくれた。『どうしたんだい、何がそんなに悲しいんだい』って優しく訊いてくだすったわ。でも、ねえ、そんなのあたくしにだって分からないのよ。ただここに居たくないんです、家に帰りたいんですなんて、言えるわけがないでしょう?」
 姫香はどう反応すればいいか分からず、あいまいに頷く。許嫁とか、それこそドラマの中でしか聞いたことがない。現実にあるものだったのか、と驚く。
「そのうち、あちらのおさまやおさまにひどいいじわるをされるようになったの。できそこないの嫁、この家にはふさわしくない女って。今思い出してもひどい言い草だわ。あたくしはべつに、望んであの家に嫁いだわけではないのに。そう決められていて、それに従っただけなの。そう、それまでなあんにも、自分のことを自分で決めなくても、周りがちゃんと整えてくれていたの。あたくしはそれにハイと言えばいいだけだった。でも、どうしてかしらね。お嫁入りだけは、ハイと言っておしまいにならなかったのよ」
 姫香はまた曖昧に頷いて、ユキ江の顔を見た。若い頃は、どんな人だったのだろうと想像してみる。小柄できやしやで、目も鼻も口も小動物っぽく小作りな顔立ちは、たぶんけっこう愛らしい感じだったのではと思う。
「だからね、せんだって、あなたがお家に戻りたくないって言ったとき、これはあたくしが助け舟を出さなくちゃって思ったの。あたくしがここで暮らすのは嫌、家に帰りたいって泣いてたときは、だあれも助けちゃくれませんでしたから」
 あれは助け舟のつもりだったのか。
「ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
 姫香はもうひとくち白湯を啜った。やっぱり、とてもおいしいと思った。

 このインターフェース、誰が考えたんだろう。はずっとイラついていた。昼下がりのハローワークの中は人でいっぱいで、ずらっと並んだ端末を使うのにも死ぬほど待たされた。
 都内……都内……都内。求めている第一条件はそれだ。派遣会社から紹介されたいるの工場の仕事は断った。都内勤務の仕事はありませんかと連絡を入れたが、それっきり何もなしだ。
 ハローワークの端末のやる気のないデザインの画面は、まるで「お前ら無職の扱いなんてこの程度でいいだろ」と語りかけてくるようだ。都内……都内……都内。できれば事務職。でも営業でもこの際販売でもなんでもいい。東京で働けるのなら。
 隣の席から、ふいに甘ったるい匂いが漂ってきた。横目で見ると、四十がらみの、白髪だらけのぼさぼさの髪をした化粧もしていない女の人が、ぼんやりと端末の画面を見つめながら「あんドーナツ」とびっしりプリントされている大きなビニール袋を開けて、砂糖まみれの茶色い丸いものを無表情でむしゃむしゃと食べ始めた。
 こんな所であんドーナツ?と驚いていると、斜め前の席のバーコード頭の男の人が、ものすごく大きくてものすごく長い、「こぶし」すら効いているゲップをした。もちろん誰も反応せず、背中を丸めて(椅子が全部妙に高いのだ)使いにくい画面を操作している。
 芽衣子は周りを見回し、それから急に泣きたい気持ちになった。
 今までの派遣先は予定通り退職した。させられた。派遣には送別会も無いし、寄せ書きや贈り物を渡されることもない。最終日もいつも通り働いて、いつも通り退勤して、それで終わり。それでもう二度と、あの一階にナチュラルローソンとスタバの入った、高層ビルのオフィスには入れないことになった。
(都内……都内……都内……)
 こうなったらもう絶対に都内の、それもおしゃれなエリアで就職してやる。そうじゃないと、何のために全て振り切って上京してきたのか、何の意味も無くなってしまう。
 めぼしい求人票をプリントアウトし、窓口に持っていく。カウンターの向こうに座っているのは、妙に派手な柄シャツを着た同世代くらいの男性職員だった。
「えー、専門学校卒業……こちらではどんな勉強されてたんですか」
「デザインを専攻しました。グラフィックデザインで、IllustratorやPhotoshopも使えます」
「あ、そうですか。実務経験はどんな感じですか」
「え?」
「その、イラストレーター?とかで、どのようなお仕事今までしてきましたか」
「あ、いえ、仕事では……使ったことはないです」
「はー。はい、はい。えー、ウインドウズは使えるんですよね。エクセルとかパワーポイントはどうですか」
「使えます。前の仕事でも使ってました」
「業務はどんなことされてました」
「名前や住所の入力とか……入力ですね」
「表計算なんかは」
「……してないです」
「はー。はい、はい」
 そんなやり取りを繰り返しながら、芽衣子は首筋を誰かにぎゅうっとつままれているような感覚に陥った。いらないものをつまんで捨てる手。いらない動物をどこかに捨てる手。そういうものに摑まれている感じがする。
 結局、数社に履歴書を送る手続きをしたが、望み薄なのは職員の態度で分かった。やたらと生まれ年など年齢に関係する話題をほのめかされたからだ。ハローワークにはまだ二十代前半くらいとおぼしき若者の姿も多かった。
(でも、私だって、健康でコミュニケーションもできて学校も出てて、パソコンも使えるし電話応対だって得意だしFAXも使えるしお茶もれられるのに。使えるのに、私。こんなに働きたいのに)
 ハローワークの入っているビルから出ると、外は別世界のようにきらびやかに晴れ渡っていた。街路樹の葉や道行く女の人のアクセサリーやサラリーマンの腕時計にの光が反射して輝いている。
(大丈夫。大丈夫。あと一ヶ月くらいかけて、じっくり探せば大丈夫)
 今口座にあるお金を大事に使えば、あと一ヶ月は家賃を払ってあのシェアハウスにいられる。その間に仕事を探して、給料の振り込みまで間が空くのなら最悪家主に交渉して一ヶ月待ってもらえばいい。就職した証拠を見せれば、すぐには追い出されたりしないだろう。あと一ヶ月。あと一ヶ月。
 その時、鞄の中でスマホが鳴った。
「はい、ざわ……えっ、待ってなんでこの番号知ってるの。お姉ちゃん? 最悪……教えないでって言ったのに……。なんでもない。で、なんなのお母さん。何か緊急の用事? 手術? えっ、誰……コロ? コロが病気なの? なんで? 手術費って……待ってよ、犬の手術費用も無いわけ? いくら……え、そんなに? そんなお金私だって無いよ! 無理だよ、家賃払えなくなっちゃう。手術しないで治らないの? ……。……。そういう言い方ないでしょ。わかったよ。出すよ。コロのためだからね。そっちのためじゃないからね!」
 芽衣子はスマホを切った。ロック画面に設定したピンぼけの雑種犬の写真が、一瞬あとにふっと消える。
「……どうしよう」
 芽衣子の口から出たつぶやきは、大きなソフトクリームにはしゃぐ親子連れの笑い声にき消された。数秒間、頭の中でたくさんの計算をしてはじき出された答えに、目眩めまいがして、しゃがみこみそうになる。
「私、ホームレスになるんだ……」

▶#4-1へつづく
◎第 3 回全文は「カドブンノベル」2020年3月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年3月号

「カドブンノベル」2020年3月号


おすすめ記事

MAGAZINES

カドブンノベル

最新号
2020年4月号

3月10日 配信

怪と幽

最新号
2020年1月号

12月19日 発売

小説 野性時代

第197号
2020年4月号

3月11日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP