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連載

米澤穂信「遠雷念仏」 vol.9

【連載小説】集中掲載 米澤穂信「遠雷念仏 中篇」 無辺を殺し「寅申」を持ち去ったのは誰なのか? 堅城有岡城が舞台の本格ミステリ第三弾! #2-4

米澤穂信「遠雷念仏」

※本記事は連載小説です。
>>前話を読む

 ふとじしの助三郎に、夏の暑さはことにこたえる。村重の前に平伏する助三郎は、大広間の床に自らの汗がしたたり落ちるのを、いたたまれぬ心持ちで見ていた。
「助三郎。おぬしに訊きたいことは、多くはない。昨夜、衣足庵から帰路に就いた、寺男の半左を見たか」
「は……はっ」
 闇夜の中で衣足庵に近づく者がないか備えていた助三郎は、いきなり後ろから声をかけられて胆をつぶした。まさかそのことで咎めがあるはずもないが、と思いつつ、助三郎ははっきりと答える。
「見てござりまする」
「そうか。心して答えよ。……その折に、半左は何か持っておったか」
 昨夜、助三郎は半左と間近でことばを交わしている。衣足庵に寺男が通っているというのは助三郎も知っていたし、半左には何もあやしいところはなかった。だがそれでも、助三郎は半左を見ることを怠ってはいなかった。
「何も。無一物にござりました」
「手に持つものに限らぬ。何か、背負ってはいなかったか」
 助三郎は半左が帰っていく後ろ姿も見ている。
「背負ってはおりませなんだ」
「……そうか」
 昨夜、助三郎らは夜を徹して衣足庵を警固していた。いかに屈強の御前衆でも、人は眠らずには働けない。村重が命じる。
「わかった。下がれ。昨夜警固に就いた者は、今日非番とする。同輩に伝えい」
「ははっ」
 助三郎は、床に落ちたおのれの汗をどうにかして拭くすべはないものかと気にかけながら、大広間を辞していった。

 最後に大広間に呼ばれたのは、北河原与作である。朝とは異なり、鎧を身に着けている。与作を含む北河原家の手勢はうきぜいであり、いざ敵が襲来すれば即座にどこへでも駆けつけられるよう、支度を整えている。昨年極月の戦でも、苦戦した岸のとりでに援兵として出され、手柄を挙げた。
 平伏する与作に、村重が命じる。
「与作。面を上げよ」
「は」
 応えることばは力強いが、与作の顔には不満がありありと表れていた。それに気づきつつ、えて何を問うこともなく、村重が問いを下す。
「おぬし、払暁に無辺を訪ねたな。……何用あってのことか」
「されば、そのことにござるか」
 与作は拍子抜けしたように言った。
「他でもござらぬ。家中に病人があり、もはや命助かる見込みはござらず。うわごとに、無辺の念仏を聞いて死にたいと申すゆえ、下郎なれど末期の願いなればかなえてやろうと思い立ち、出かけてござる」
「ずいぶん早いようであったが」
「命尽きようとする病人のため、寸刻を争ったまで。これでも夜明けは待ち申した。あのような始末となり、望みを叶えてやれず無念に存ずる」
 大広間の隣の部屋では、御前衆が聞き耳を立てている。いまごろは誰かが北河原家に走り、そのような病人がいるか検めているだろう。
 与作はずっと眉を寄せていたが、とうとう言った。
「殿。お尋ねしてもよろしゅうござるか」
「……許す」
「されば。聞けば郡や乾、果ては寺男までお呼びになったとのこと。そも、これは何の検断にござりましょうや」
 村重は答えず、与作は言い募る。
「織田の手の者が秋岡を斬り、無辺を斬った。その上、何を検めておられるのか。この与作、どうにも合点がいきませぬ」
 与作ならば、そう考えるのが道理である。だが村重は、どうしても無辺の死の周辺を検めねばならなかった。
 無辺が村重に呼ばれたこと、その後に無辺が衣足庵に宿を借りたことは、別段秘密ではない。無辺の動向は城中の多くの者が見守っていたはずで、無辺がどこに泊まったかは誰もが知っていたと言っていい。
 だが、無辺が村重の命を受けた密使であったこと、この世に二つとない名物寅申を預かっていることを知っている者は、誰もいなかったはずだ。なにしろ村重は、茶器が増減していることを悟られぬよう、蔵から茶道具を出す小者と、茶道具を書院へと運ぶ小者、書院から蔵へ戻す小者をそれぞれ替えたぐらいだ。
 それでも、寅申は奪われた。
 単に、無辺が村重と接したために狙われたとは考えにくい。密使の疑いがあるという理由で、この有岡城中で廻国僧を殺し、しかも密書は持ち去らないというのは奇妙な動きだからだ。無辺と秋岡を殺した何者かは、やはり、寅申を狙ったのであろう。
 だとすれば──密事がどこかでれている。みつであったはずの和談も、洩れているやもしれぬ。
 密事はどこから洩れたのか。村重はそれをこそ、知ろうとしている。
 だがこのことは無論、与作が知っていいことではない。城中の誰にも話せることではない。
 ──いや。ただ一人──
 与作が訝しげな目を向けるのに気づき、村重は短く、
「言えぬ」
 とだけ言った。

 北摂の土は水を含む。
 有岡城天守の地下に、暗く狭い洞がある。この伊丹の地に有岡城を築くとき、村重が掘らせた牢である。直上に天守を据えられ、押しつぶされた土からは、じわりと水が染み出す。それゆえこの地下牢は常にれている。地上は酷暑にさらされているが、地下は、寒い。
 村重は白昼、誰も伴わず、しよくを自らかざし、この地下牢へのきざはしを下りていく。牢番が足音に気づいて出迎える。
「殿」
 しわがれた声だった。牢番は五十がらみの男で、名をとうまたもんという。先般、不慮の死を遂げた牢番の代わりに、この地下牢でたった一人の囚人の番をしている。
「生きておるか」
「どうにか」
「錠を開けよ」
 命に従い、又左衛門は腰に下げた鍵を手に取る。片開きの木扉の錠前に鍵を差し込み、ひねれば、がちりと重い音と共に錠が開く。
「……開きましてござりまする」
 戸口が傾いているのか、錠を開けただけで扉が勝手に開いていく。村重が手燭を差し伸べるが、ろうそくの弱々しいあかりは闇に吸い込まれ、先は見通せない。村重は無言で扉をくぐる。さらに下りる階が延びている。
 一歩一歩と下りるにつれ、地虫どもが明かりを嫌って村重から離れていく。やがて手燭の作る光の輪の中に、人を閉じ込めて決して出さぬという強い一念が凝り固まったような、太い木格子が見えてくる。
 木格子の奥には、黒い塊がある。村重が言う。
「官兵衛」
 塊はもぞりと動き、そして笑った。
「これは摂州様。……官兵衛の目算より、いささか早いらいにござった」

(この続きは「カドブンノベル」2020年8月号でお楽しみください)


書影

「カドブンノベル」2020年8月号


堅城・有岡城が舞台の本格ミステリ第四弾! 村重を裏切ろうとしているのは誰なのか?

米澤穂信「落日孤影」はカドブンノベル10月号~集中掲載!


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