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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.59

【連載第59回 新年合併号】東田直樹の絆創膏日記「幸福になるための修行」

東田直樹の絆創膏日記

自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす26歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?
>>【連載第58回】東田直樹の絆創膏日記「読み聞かせの幸福」

 生きている間に、何かを成し遂げたいと思っているのに、それが何なのかすらわからないと気に病むことはないだろうか。
 子どもの時には、夢がたくさんあったような気がする。
 どれだけ大きな夢でも、みんなが真剣に聞いてくれて、目標を掲げるだけで褒めてもらえた。なのに、子どもだった頃の夢は、大人になるにつれ徐々にしぼんで小さくなった。
 純粋過ぎる動機も、もう忘れた。努力の足りなさも単なる言い訳。日々生きることだけに必死で、弁解の言葉もすでに必要ない。
 誰もが、そうなのだろうか。
 夢を実現する人としない人の違いは何だろう。
 それがわかれば、みんなが夢を実現できるのだろうか。
 時間は、刻々と過ぎていくけれど、夢はどんどん遠ざかる。
 僕の目の前には、真っ直ぐな道が続いている。この道は、どこに向かっているの。振り返ると、ひとりの少年が、きらきらした目で僕を見ているではないか。その瞳があまりに美し過ぎて、僕は目を合わせないようにしながら前を向いた。
 はるか向こうに、いつの間にか、おじいさんが立っていた。おじいさんは黙ってうなずくと、僕に背を向け、ゆっくりと歩き出した。足取りは重かったが、決して辛そうには見えない。
 僕は、おじいさんの姿を見守った。そして、おじいさんが見えなくなると、力強く自分の一歩を踏み出した。

 深い悲しみは、いつまでたっても癒えない。
 悲しみは、喜び以上に、強く記憶に残るものだからではないだろうか。
 脳裏にこびりつくのだ。忘れよう、忘れようとしても、決して記憶から消し去ることは出来ない。思い出すと、胸が締め付けられる。気分がどん底に落ちる。
 幸せな記憶が、人間にとって生きるための糧となるなら、悲しみの記憶というものは、消し去ってしまうべきものではないだろうか。けれど、忘れることなど出来ない。
 悲しいことさえなければ、人は幸せに生きられると考えるのは、間違いなのかもしれない。
 悲しい記憶があるから、人は強く生きようとするのではないだろうか。
 自分がどう生きるべきか、人生の目標を、人はすぐに見失ってしまう。
 楽しい思い出ばかりなら、幸せに違いない。しかし、慣れてしまえば、それを幸せとは呼ばなくなる。幸せは日常となり、もっと楽しいことが起きないかと期待するだろう。
 人の欲望は果てしない。ひとつ満足しても、次から次にやりたいことが出て来る。けれど、悲しいことが起きれば、何でもない毎日も、こんなに幸せだったのかと改めて知ることになる。
 悲しかった出来事を思い出すたび、今の幸せに満足する。
 悲しみは思い出させてくれるのだ。幸せとは、永遠ではなく限りあるもの、そして、常に変化し続けるものだということを。
 悲しみから逃れられた人はいない。悲しみを恐れて幸せになった人もいない。
 だから僕は悲しみを、僕のありったけで受け止めたい。

 仏教において煩悩とは、心身を悩まし、乱し、煩わせ、惑わし、汚す心の作用である。人間の苦の原因とされるこの煩悩をはらうため、12月31日の大晦日の夜に、多くの寺では、除夜の鐘が108回つかれる。
 静寂の中、しみわたるように鳴り響く鐘の音、合掌する人々の祈りには、一年の幸せを願う気持ちが込められている。
 煩悩が、幸福を遠ざけるという考え方は、悟りの境地に近いのではないだろうか。
 欲との闘いは、自分との闘いである。
 一年を振り返る際、まず、口から出るのは、後悔や懺悔などの反省の言葉だと思う。
 今年起きた出来事を思い起こし、過ちを認め、もう一度、清く正しく生きようと自分に言い聞かせる。
 夜中の12時を過ぎれば元日、初詣に出かける人々で神社は大賑わい、家族や友達同士で、わいわいと出かけた人たちも、参拝の時には、神妙な面持ちになる。
 自分ひとりでは成し遂げられないことも、きっと神様なら叶えてくださる、信じることで人は救われる。
「どうか、御利益がありますように」
 そう願っている時点で、新たな欲に執着している僕らは、生きている限り、幸福になるための修行を続けなければならないのだ。
 白い息を吐きながら神社の境内を下りる。
 新しい年の始まりに、胸を弾ませることの出来る人は、みんなにうらやましがられていることだろう。

 初詣に近所の神社に出掛けた。
 主に参拝客は地元の人たちなので、朝早くなら人はいない。
 境内に入った僕は、興奮して走り回らないよう、今年は自分でも用心して、ゆっくり歩くことを意識した。僕は「ゆっくり」が、どんな歩き方なのかわからないのではない。どうすれば自分の足を、ゆっくり動かすことが出来るのかがわからないのだ。すぐ隣で見本を見せてもらえれば、その時には、ゆっくり歩く足の動きを真似することは出来るが、だからといって、いつでも、どこでも、同じような歩き方が出来るわけではない。
 それは、ゆっくり歩くことが、どのような動きだったのか、僕が思い出せないからではない。僕が自分の体にどう命令すれば、足をゆっくり動かせるのか、僕の脳が学んでいないからではないだろうか。
 では、ゆっくり歩くことを、今日の僕がどのように意識したのかというと、ひと言で言えば、止まっている自分の姿を、頭の中でイメージし続けたのだ。
 自分では足を動かしたつもりはないが、僕は気づくと拝殿の前にいた。ゆっくり歩けたのだろう。この方法は、結構うまくいったみたいだ。
 さい銭箱におさい銭を入れ、鈴を鳴らす。
 僕は手を合わせ、大きな声で「明けましておめでとうございます」と神様にご挨拶をした。
 家族がびっくりして、「お祈りは、心の中でするんだよ」と小声で教えてくれた。
(ああ、そうだった)
 でも、神様に新年の挨拶だけをする人間がいてもいいよね。神様は、こんな僕のことを大目に見てくださるだろうか。
 僕は、立ち止まって神様の姿を探した。道の向こうに神社に向かう家族連れの参拝客が見えた。
 新しい年の初めに誰かの幸せを祈る、そんな自分が誇らしく思えるかのように、参拝を終えた人たちは、胸を張って家路につくに違いない。

 僕は海をじっと見つめていられない。何だか恥ずかしくなるからだ。何が恥ずかしいのか考えていると、「どうして君は陸にいるのか」と、問いかける声が聞こえて来た。
 メッセージは、人間の言葉ではない。信号のようなサインで、波動のように、僕の心に伝わって来るのだ。空から言葉が降って来るといった表現の方が近いのかもしれない。
 質問に答えられない僕は、こそこそと青い海から逃げ出そうとする。このまま海を眺めていたいのに、今すぐ海に飛び込みたいのに。
 けれど、砂浜に隠れる場所などない。あたふたするばかりの僕、まるで浜に打ち上げられた魚みたいに、パクパクと口を動かす。
 どうして僕が陸にいるのか、自分でもわからない。なぜ立ち去ろうとするのか、それは僕に足があるからだ。
 陸にいる僕は責められているのか、それとも褒められているのか。逃げる僕を笑うのは誰?
「人の祖先は魚だったはずだよ、進化したのは人である僕の方」
 空に向かって言い訳を始めたら、足元に波がにじり寄って来た。
 さらわれてはいけない。一目散に今来た道を走り出す。魚に戻りたいと思っている僕の気持ちを見透かされたのだ。
 人が一番偉いわけではない。
「どうして君は陸にいるのか」というメッセージが聞こえなくなったと思ったら、僕の耳に波の音も届かなくなっていた。

「とんちんかん」という言葉の音の響きはおもしろい。
「とんちんかん」とは、物事のつじつまが合わないこと。見当違いであること。また、そのさまを意味する。かじ屋の相槌の音が、交互に打たれてそろわないことが語源らしい。
「とん」も「ちん」も「かん」も、言葉そのものに意味がないにもかかわらず、音のような3つの言葉がつらなって、見当違いという意味になるのである。
「とんちんかんだね」と言われたら、僕は反省する前に笑ってしまう。
 そして、一体、僕のどこが、「とん」で「ちん」で「かん」だと思ったのか、相手に聞きたくなるのだ。
 泣いている人を笑わせたり、笑っている人を怒らせたり、言葉というのは、時に思わぬ結果を呼び、人の感情を揺さぶる。
 言葉はどこから生まれるのか。
 その人の心だと思っているかもしれないが、言葉は、相手がいるからこそ、紡ぎ出されるものだ。
 自分ひとりでは生まれなかった言葉が、この世に誕生したのは、誰のおかげか、はたまた誰のせいか。
 言葉の奥に込められた善意に安堵し、言葉の奥に潜む悪意におびえながら、今日もあきることなく人々は会話する。
 自分の言葉が、誰かを幸せにすることを信じて。自分が生きた証をこの世に残すために。

◎次回1月24日(水)はいよいよ最終回です!


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