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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.3

【連載第3回】東田直樹の絆創膏日記「『ありがとう』のふたつの意味」

東田直樹の絆創膏日記

『自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす25歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?
>>第2回 意識高い系ってどんな人

 雨の日の夕方は寂しく感じる。秋の物悲しさが一層心に響く。
 窓から外を見る。人も車も、いつもよりゆったりと移動している。雨ですべらないように気をつけているのだろう。そんな時は、時間がゆっくりと流れているような感覚になる。実際には、時間はいつもと同じように経過しているのだから、そろそろとした景色が、僕に錯覚を起こさせるのだと思う。
 人のいない山奥で、時間に縛られない生活をしたなら、自分の目で見ている風景だけが頼りだろう。沈む太陽、山に帰る数羽のカラス。オレンジ色の夕焼けを瞳に映し、夜は木々と眠りにつく。どんなに悲しい話を聞いても涙を流さない人でさえ、嘆きにも似た虫の音色の鳴き声に、涙をぽろりとこぼすに違いない。秋の夜は、ただ、ただ哀しい。
 そんな思いにふけりながら、シトシトと降る雨が心まで濡らさぬよう、僕は道行く人の傘に視線を向ける。
 傘が、ゆっくりと動く。傘の中では、みんなどんな顔をしているのだろう。人の居場所を傘が教えてくれても、その人の表情は読み取れない。
 時間はゆるゆる流れているのに、雨の日は暗くなるのが早い。
「いつの間にこんな時間になったのだろう」
 心の中でつぶやく。振り返った僕の目に飛び込んできたのは、蛍光灯の部屋の明かり。この光が、いつもの日常を僕に返してくれた。

 パンダの赤ちゃんのシャンシャンが生まれて、今日で157日目らしい。
 生まれた時は小さ過ぎて、パンダの赤ちゃんとは、とても思えなかったが、今は、どこから見ても立派なパンダだ。ぐんぐん大きくなっていることに、びっくりする。だが、それ以上に印象的なのは、毎日のようにテレビや新聞でシャンシャンを見ている人も、たまにしかシャンシャンを見ない人と同じように、ことあるごとに「もう、こんなに大きくなったの!?」と驚いていることである。
 それは、生まれた当初が忘れられないからとか、人の記憶があいまいだからといった理由ではなく、みんなシャンシャンを見ているようで見ていないだけではないのだろうか。
 シャンシャンの場合、報道され続けてきたが、シャンシャンが、どれくらいの大きさなのか、どのような特徴をしているのか、多くの人は、それほど気にしていなかったのだと思う。中には、みんなが見ているから、私も見なくちゃ、という人もいたかもしれない。余程シャンシャンに関心があるか、パンダの研究をしている人でなければ、目にしたシャンシャンの様子を詳細には覚えていないような気がする。要するに、多くの人の関心は、その日のシャンシャンの姿、形ではなく、シャンシャンが今日も元気に生きているかどうかだったのだろう。
 シャンシャンを見て、かわいいと歓喜の声を上げ、育ちを応援していた僕の家族も、だんだんと反応がトーンダウンしていった。それは寂しいことではなく、シャンシャンが一人前に近づいている喜ばしい証拠なのだ。

 今日、見かけた中学生くらいの子供たちのグループは、にぎやかだった。ふざけ合ったり、じゃれ合ったり、みんな大きな声で笑っていた。
 僕は、自閉症という障害を抱えていて、普通の人のようには会話が出来ないので、そういった場面に遭遇すると、少し羨ましくなる。僕もやってみたいと素直に思う。でも、それは永久に叶うことのない夢だということを、僕自身が一番よく知っている。こう書くと「そんなことはない」と励ましてくれる人もいるかもしれない。その言葉は優しさだろう。
 励まされたら、励まされた人は、たいてい「ありがとう」と応える。僕は、この「ありがとう」には、主にふたつの意味が込められているのではないかと思っている。相手には理解されないと感じ、どうにか早く話を切り上げるためにお礼を言う、これでおしまいの「ありがとう」。もう一つは、相手の気遣いに感謝の気持ちを伝える、思いやりに対する「ありがとう」である。どちらにしても励まされた人の本心としては、励ましてくれた人の言う通りだとは思っていないだろう。と言うより、励まされたからといって、すぐには考えを変えられないのが人間だ。でも、励ます方は、これで全てが解決したかのようにほっとする。自分はいいことをしたと胸をなでおろす。
 励ます、励まされるの両方を経験していても、このやりとりのパターンが変わることはあまりない。人間とは自分本位である。つくづく相手の立場に立てないものだと思う。

 真理とは、いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道である。
 心の奥底で、これをやってはいけない、と誰もがわかっている道徳が真理ではないだろうか。戦争や暴力への反対、人を傷つけないことも真理と言えよう。人間は完璧でないために、真理がわかっていても間違いを犯してしまう。それは、仕方ないことなのかもしれない。
 それでも曲げてはいけないのが、真理は何かという土台だと思う。
 真理に例外はつくるべきではない。
 なぜなら、真理に例外が適用されるなら、それは真理ではなく法律になるからだ。
 どうしてそうなってしまったのかという理由は、百万通りあるだろう。いわゆる弁解と呼ばれるものである。人は、自分や自分が大切にしている人を守る目的で言い訳をする。自分の正義を振りかざす。
 法律であれば、言い訳が通用することもある。自分を擁護するのも時に必要になってくる。けれど、社会倫理として多くの人が望んでいるのは、人として手本となるような生き様だろう。
 真理は守らなければいけない。そうでなければ世の中が壊れてしまうことを、人は本能として知っている。人が人であるゆえんは、真理を探求する心にあると僕は思っている。
 真実が何かわからなくなった時、人は戸惑い、葛藤する。真実を見抜こうとせず、真理に当てはめ整理すれば解決の糸口は見つかるのかもしれない。

 
 

連載「東田直樹の絆創膏日記」は毎週水曜日に配信します。第4回の更新は12月6日(水)の予定です。


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