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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.2

【連載第2回】東田直樹の絆創膏日記「意識高い系ってどんな人」

東田直樹の絆創膏日記

『自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす25歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?

 いらいらがひどくなると、どうしようもなくなる。まさに、頭に血が昇った状態である。
 その時は、周りの人が何を言っても聞こえないし、何も見えない。落ち着いてと注意されるが、僕が戦っているのは、僕自身の気持ちではないのだ。自分の目の前に、突如、悪魔のような怪物が現れたとしか言いようがない。妄想とは違う。何かが見えたり、聞こえたりしているわけではなく、たぶん、心に潜むやるせなさが、怪物と対峙しているような気にさせるのだろう。
 僕は、怪物に勝つためにワーワー叫び、跳びはねる。何かしなければ、精神が壊れてしまう。苦しみ抜いた先に僕が目にする景色は、荒れ果てた荒野か、はたまた綺麗なお花畑か。
 しばらくして正気に戻った僕は、後ずさりしながら薄目を開ける。
「ああ、また、やってしまった」自己嫌悪に陥る。心の中では、みんなに謝っているのに、言葉にならないせいで余計にへこむ。
 なぜ、こうなってしまうのか僕にもわからない。そんな僕に手を差し伸べてくれるのが家族だ。肩を叩いて、こんなこともあるさと笑ってくれる。こうして僕は、また、いつもの日常に戻るのだ。
 僕が、いらいらを止めることは難しい。けれど、四六時中いらいらし続けているわけではない。そう思い直し、僕は明日も元気に生きる。怪物は、再び現れるだろう。今度こそはヒーローになって、戦い抜きたい。

 海に行った。すごくきれいだった。
 波は遠くから次々と岩壁に打ち寄せ、僕にこう語り続ける。
「どう生きればいいのか、誰も、すぐには答えが出せない。繰り返し問い続けても終わりは見えない」海が、そう言っているかのように、僕には聞こえてならない。
 海に小石を投げる。何度も何度も投げる。
 ポチャン、トポン、ポチャン、トポン。
 僕が投げた小石は、海に穴を開け沈んでいく。
 なぜ、僕は小石を投げ続けるのだろう。
 遠くに、できるだけ遠くに小石を投げるのが、今の僕の仕事なのだ。
 どうして僕は、小石を遠くに投げなければいけないのだろう。
 一個投げると、また一個。一個投げると、また一個。そうしなければ海に叱られそうで、僕は怖い。
 投げれば投げるほど、僕は不安になる。
 これでよかったの、これでよかったの……僕は海に尋ねる。海から答えを聞くことは、永久にないのに。
 生命の起源である海。その大いなる懐に抱かれ、今の僕も存在している。
 生きることに疲れた人が海に会いにくる。
 広い広い海をさえぎるものは何もない。
 心の隅々まで海に洗われたと思えた時、人は涙を流すのだ。
 僕が海を見たいのは、海から生まれたせいだろうか。こうして、自分がここに存在する意味を海に問う。
 それは、生きていることを実感として感じることができる人間だけが行う行為である。

 意識高い系という言葉がある。それが、一体どんな人のことを言っているのか、わかるようでわからない。定義が、はっきりしていないからだろう。自分では優秀だと思っているのに、周りの評価が伴わない人を指しているわけではないらしい。
 僕が意識高い系かどうか考えてみたが、まず、意識が高いという言葉の意味が不明である。意識とは、自分の状態や周囲の状況などの認識を指す。思うに意識は、各々の頭の中で認識している現象だから、他の人と比べて意識が高いか低いか、実際のところ評価するのは難しい。また、人は目の前で起きている出来事に対し、自分の思考を瞬時には言語化できないせいで、自分が今、何を考えているのかわからないというのが普通であろう。
 結局、自分はこんなにすごいのだ、というアピールの仕方の下手な人が、意識高い系の人なのだと思う。これに、その人の評価も加味されてしまい、実力も伴わないのに自分のことを自慢していると、他人から意識高い系と呼ばれてしまうに違いない。
 意識高い系が褒め言葉ではないのは、みんなが知っている。自分のことを自分で意識高い系と思っている人もいない。
 これらをまとめると、意識高い系というのは、他人の陰口のために生まれた言葉なのだろう。
 自分が意識高い系かどうかわからないのは、どうやら僕だけではなさそうだ。
 単なる陰口なら、気にしなければいいだけである。

 動物はもちろんのこと、ぬいぐるみや持ち物にまで、自分の気に入った名前をつけ、話しかける人がいる。ペットであれば、家族の一員だと思っている人も多いので、名前をつけるのはわかるが、生き物ではない物にも名前をつける人がいるのはどうしてだろう。
 話しかけても反応はない。それでも人に接する時のように、物に対して気遣いをする。しかも、その行為は特定の期間が多い。やがて、いつの間にか別のものに関心が移り、そんなことはしなくなる。
 僕は、物に名前をつけるのは、これは自分のものだと、みんなにわかってもらいたいからではないかと考えていたが、それだけではない感じだ。
 おそらく、自分の生活に彩りを添えたいのではないか。物に名前をつけ命を吹き込めば、世界がバラ色になるわけではないが、寂しさを少し紛らわすことはできるに違いない。
 物を大事にする行為と、物を人のように扱う行為は別だと思う。なぜなら物を大事にするのは長持ちさせるためで、物を人のように扱うのは、物に人の代わりをしてもらうのが目的のような気がするからだ。
 残念ながら、物に人の代わりは出来ない。それでも、何かをお気に入りの「人」に仕立てることで、自分の味方が増えたような気になるのだろう。
 生活の彩りとは、おもしろみや風情、華やかさなどを日々の暮らしの中に付け加えることである。楽しい毎日は、小さな発想から生み出すことが出来る。

 
 

連載「東田直樹の絆創膏日記」は毎週水曜日に配信します。第3回の更新は11月29日(水)の予定です。


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