ウクライナ人の妻を持つ日本人ジャーナリスト。人々が戦い続ける理由とは
『ウクライナ・ダイアリー 不屈の民の記録』レビュー
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『ウクライナ・ダイアリー 不屈の民の記録』
著者:古川英治
書評:小泉 悠(東京大学先端科学技術研究センター専任講師)
2022年2月24日にロシアがウクライナへの侵略を開始して以降、多くの「ウクライナ本」が出た。日本で出版されたものだけでも相当の数に上る。ロシアのウクライナ侵略を歴史的観点から説明しようとするもの、軍事的な戦況分析、日本であまり知られていないウクライナという国について書かれたものなど、その内容も多彩だ。
しかし、本書『ウクライナ・ダイアリー』は少し毛色が違うように思う。ちょっとおかしな話かもしれないが、一読した上で想起したのは椎名誠の『パタゴニア あるいは風とタンポポの物語り』だった。
サラリーマンを辞め、一躍スター作家になった椎名は、家庭を顧みずに仕事に飛び回り、取り残された妻は精神を病んでしまう。そのことにようやく気付いたのは、念願だった南米パタゴニアへの取材旅行へと出発する直前だった――というところから始まる物語である。結局、椎名は主治医のアドバイスに従って南米へと旅立つのだが、チリ海軍のオンボロ軍艦で南極海を航海し、パタゴニアの大平原を旅する冒険の間も、心の中で続く妻との対話が通奏低音のようにして物語には流れ続ける。
『ウクライナ・ダイアリー』との表面的な類似性は、著者の古川が妻との関係に悩む点であろう。日本の大手新聞社を辞めた古川はウクライナ人の妻と共にキーウへの移住を決意するが、それはロシアによる全面侵攻のわずか2カ月前のことだった。避難を主張する古川と、あくまでも生まれ育った街に固執する妻との関係は悪化し、苦悩が募っていく。
実は古川が日本を離れる直前、私は古川と会っている。研究室まで訪ねてきた古川と「ロシアの侵攻はあるか」「かなりヤバそうだ」「どうか気をつけて」といった月並みな話をした。こうした家族のドラマがあったと知っていたなら、なんと声をかけていたのだろうか。今になってもわからない。おそらく正解はなく、そうであるが故に古川の内的な危機は深刻であったのだろうと思う。
ただ、『パタゴニア』との違いは、妻と夫の関係性が逆であるという点だ。『パタゴニア』の椎名は、サラリーマン生活に縛られない自由という「大きなもの」を望み、妻は家庭の安寧という「小さな幸せ」を願った。だが、『ウクライナ・ダイアリー』では妻がウクライナの自由という「大きなもの」を望み、「小さな幸せ」を優先しようとするのは夫の方である。そして、『パタゴニア』では椎名が妻の想いを受け入れるのに対して、『ウクライナ・ダイアリー』では最終的に古川が妻の主張する「大きなもの」に意義を認めていく。二つの物語は、似ているようでいながら大きく異なる結末へと至る。
古川に「大きなもの」を認めさせたのは、副題にある「不屈の民」の姿である。軍事大国ロシアの侵略に直面しながらも、人々の中のあるものは銃を取り、パン屋はパンを焼く。お笑い芸人は笑いに徹し、鉄道員は一日たりとも鉄道を止めず、ITエンジニアはサイバー空間でロシアと戦う。自らの持ち場を決して離れようとしないこうした人々の姿こそが本書の主題であり、また最大の見せ場であると言えよう。それぞれの仕事は地味なものであり、決して特別なことをしているわけではないが、それだけに深く胸を打つものがあった。
では、ジャーナリストは? 書くしかないではないか!
と古川が思ったのかどうかはわからないが、自らをこの戦争の「当事者」と位置付けて取材を続けることにした胸の内はこうしたものであったのではないかと思う。
別の言い方をすれば、本書は、一人の人間が戦争という怪物的巨大現象とどのように立ち向かうのかという判断の物語でもある。それは抗うべき戦争なのか、一つしかない命をかけてでも戦い抜くべき戦争なのか。優先されるのは「大きなもの」か「小さな幸せ」か。
答えは簡単に出ない。わかりやすい判断基準があるわけでもない。私も含めて、大部分の日本人は、そもそもこのような決断をしたことさえない。
それでも、この戦争に関して、ウクライナの人々と古川は戦うという決断を下した。翻って自分ならどうするだろうか。日本人はどうだろうか。本書の主人公は我々でもあり得るのだと気付いたとき、自らの持ち場を守り続ける人々の姿が一層のリアリティを持って迫ってくるのを感じた。
作品紹介
ウクライナ・ダイアリー 不屈の民の記録
著者 : 古川英治
発売日:2023年08月17日
ウクライナ人の妻を持つ日本人ジャーナリスト。人々が戦い続ける理由とは
新聞社を退社しウクライナに移住した著者は、ほどなくロシア侵攻に直面する。避難を訴える著者とは対照的に、家族や市民は日常生活を続けていた。閣僚、医師、兵士、子ども……自由を求め、戦い続ける人々の記録。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322207000644/
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