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住宅街の片隅に佇む小さなビストロ、今宵もオープン。――長月天音『キッチン常夜灯』レビュー【評者:三辺律子】

共感と美味しさ溢れる温かな物語。
『キッチン常夜』レビュー

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キッチン常夜灯

著者:長月天音



疲れた心をあたため、少しずつ少しずつ前向きにしてくれるレストラン

書評:三辺律子

 そう待つことなくスープが運ばれてきた。
 少しだけクセのある複雑な香り。淡い褐色のスープには細かく刻まれた野菜と白インゲン豆がたっぷり沈んでいる。上に飾られた刻みパセリも瑞々しい。(中略)
 私はスープをすくって口に入れた。香りの次はセロリやニンニク、香味野菜の風味が押し寄せる。スプーンで皿に沈む野菜をかき回すと、縮緬キャベツ、ニンジン、タマネギ、白インゲン豆がゆるりと踊り、野菜に混じるように細かいお肉が見えた。
「ええと、これは……」
「ガルビュールは生ハムのお出汁が効いたスープなんですよ」

 主人公のみもざは、外食チェーン店の店長。自分より年上の男性社員に気を遣い、人件費を考えながら学生バイトを回し、売上を横目で見つつ、廃棄量を抑え……店長という「重くて息苦しい鎧」を着て、今日も店頭に立つ。ところが、そんな彼女に追い打ちをかけるように、住んでいたマンションが火事になり、一時的な引っ越しを余儀なくされる。もはや限界、と思った時に見つけたのが、〈キッチン常夜灯〉だった。
 営業時間は午後九時から午前七時。シャイな城崎シェフが作る料理は、バスク地方で修業してきた本格派フランス料理で、ほがらかで愛嬌があるのに押しつけがましくないフロア係の堤さんが絶妙なタイミングで、料理と会話を運んでくる。みもざのように忙しくて食事をし損ねた人、終電を逃した人、ほかにもわけのありそうなお客さんが、一人カウンターでグラスを傾け、あるいはワイワイとテーブルを囲む。まさに、「少しだけクセのある複雑な」レストランは、ガルビュールのように、みもざの疲れた心をあたため、少しずつ少しずつ前向きにしてくれる。
 そう、みもざは頑張り屋なのだ。社長の「半数以上の店舗で女性店長を」という思い付き(思い付き自体はいいのだが、下準備ゼロで、スタッフが育っていなかったのだ)でいきなり降ってきた店長という地位は「鎧」のようだと思いつつも、日々の業務をきちんとこなし、客に女じゃなくて責任者を呼べと言われても耐え、閉店時間を過ぎても長居する客にも、イライラをぐっと抑えてにこやかに接する。しかも、その客が転勤する息子との最後の家族団欒を楽しんでいたと知ると、イライラしてしまった自分を反省するのだ。

「申し訳ない気持ちが体の底から湧き上がる。店長だからではない。人として、心からそう思った」

ああ、みもざったら、そんないい人じゃ、疲れちゃうよ! 思わず声をかけたくなる。
 職場の外でも、30代のみもざには

「心の底の澱が、何かに刺激されてゆらゆらと揺れている」

ようなことがたくさんある。例えば、初の女性役員就任を祝ってもらっている女性を見た時。みもざは、なぜか苦い気持ちになってしまう。自分の生活をほとんど犠牲にして、結婚もせず、子どもも作らず仕事をしてきた彼女は、本当に「満足」しているのだろうか? 〈キッチン常夜灯〉の堤さんが、男性客に「こんな時間に働いていて、ご主人はいいの?」と言われているのを、目の当たりにしたりもする。一方で、常連客の奈々子やシェフ自身も、複雑な事情を抱えていることが、だんだんとわかってくる。そして、〈キッチン常夜灯〉の成り立ち自体に、現代の効率主義への疑問が絡んでいることも。
 そんなとき、いちいち自分の心の中をのぞき、考え込む真面目なみもざが、だんだんと愛おしくなってしまう。もっと力を抜いてもいいよ、不真面目でいいよ、なんてわたしは言いたくなってしまうけど、でも、そんな心配は必要ない。だって、みもざには、〈キッチン常夜灯〉があるから。堤さんの言う通り、

「よく食べる方はたいがい元気よ。気力も体力も充実するってことかしらね。食べ物は大切」

なのだ。
 最後に、どうしても書きたいから書かせてください。〈キッチン常夜灯〉のわたしが食べたい料理ベスト3。3位は冒頭のガルビュール。2位はピペラード。1位は仔羊のペルシヤード。どんな料理かはぜひ本書で!

作品紹介



キッチン常夜灯
著者 :長月天音
発売日:2023年09月22日

住宅街の片隅に佇む小さなビストロ、今宵もオープン。
街の路地裏で夜から朝にかけてオープンする“キッチン常夜灯”。チェーン系レストラン店長のみもざにとって、昼間の戦闘モードをオフにし、素の自分に戻れる大切な場所だ。店の常連になってから不眠症も怖くない。農夫風ポタージュ、赤ワインと楽しむシャルキュトリー、ご褒美の仔羊料理、アップルパイなど心から食べたい物だけ味わう至福の時間。寡黙なシェフが作る一皿は、疲れた心をほぐして、明日への元気をくれる――共感と美味しさ溢れる温かな物語。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322304000216/
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プロフィール

三辺 律子(さんべ りつこ)
英米文学翻訳家。東京都出身。猪熊葉子氏、神宮輝夫氏に師事。おもな訳書にクリス・ダレーシー「龍のすむ家」シリーズ、サリー・ガードナー『マザーランドの月』、パトリック・ネス『まだなにかある』、ラドヤード・キプリング『ジャングル・ブック』、デイヴィッド・レヴィサン『エヴリデイ』、エリ―・ウィリアムズ『嘘つきのための辞書』など多数。共著に『12歳からの読書案内 海外作品』、『翻訳者による海外文学ブックガイド BOOKMARK』(1、2)などがある。


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