3月に行われたアカデミー賞でメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞して以来、辻一弘の名は、広く知られることになった。『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』でゲイリー・オールドマンを特殊メイクでウィンストン・チャーチルに変貌させたその卓越した技術は、世界一と呼ばれている。凱旋来日した際には、多くのマスコミがその雄姿を捉え、フィーバーぶりも記憶に新しい。その辻の半生を綴った著書が上梓された。
冒頭に書かれたのはこんな言葉だった。
「この本を生涯、師と仰ぐ故ディック・スミス氏に捧げる。あなたは私に仕事だけでなく人生についても教えてくれた。一人の人間として生まれた限りは、与えられた人生の中で唯一無二の存在になるべきだと」
本著はアカデミー賞受賞式当日の心境を綴ったプロローグから始まり、幼少期の記憶から人生を変えた一枚の写真との出逢い、そしてハリウッドを目指し、第一線で活躍するも、後に映画界から身を引き、現代美術家として生きていく決意をした彼の半生が語られる。
1969年、京都で生まれた辻は、周りの大人たちの裏表のある態度を敏感に感じ取り、一人で過ごす時間が多く、次第にもの作りに興味を持っていった。辻は当時の様子を「自分の外見と内面のバランスをどう取っていくかで随分悩んだ。精神的に不安定になった時期でもあるし、表に出るのも嫌だった」と話す。学校にも家庭にも居場所のなかった辻少年が自身を抱きしめる術は、ものを作ることだけだった。
高校時代、手先が器用だった彼は、本屋である洋書に目が留まり、そこで俳優を特殊メイクでリンカーン大統領に変身させた姿に釘付けになる。「これがやりたい」と直感で感じた彼は、「何かが繋がった感覚」を得て、「顔に魅せられた人生」が大きく動き出す。その特殊メイクを手がけたのがディック・スミス。特殊メイクの第一人者といわれる人物で、冒頭で語っているように辻の人生に大きな影響を与えた人物だ。スミス氏との関係は、師弟を超えたものであり、辻のこれまで幾度となく訪れる岐路で、手を差し伸べ導いてきた。そんな師との関係は、彼が引退してからも続き、今度は辻が寄り添い続け、二人の関係はより深いものになった。
最も印象深いエピソードは、80歳の誕生日に、彼の顔を2倍サイズで再現した胸像を制作し、プレゼントした折りのことだ。大きな自分の顔の胸像を見たスミス氏が涙を流して喜んだ。その光景は映画界でやっていくことに疑問を持ち始めていた辻に大きく影響し、ハリウッドを離れ、現代美術家として生きていく決意へと向かわせた。そこから、エイブラハム・リンカーン、アンディ・ウォーホル、サルバドール・ダリ、フリーダ・カーロと制作。どの人物も辻が「惹かれた人」であり、波乱な人生を生き抜いてきた人物である。辻は彼らの人生を調べ、制作を通して追体験し、彼らの複雑な思いを〝顔〟に乗せていく。その行為は、辻自身の「精神的な治癒」となり、と同時に辻の作品に触れた人の心も「治癒される瞬間があるのではないか」と話す。
時に流儀を通すあまり反発を買い、慣習との間で信念を貫く難しさ、葛藤は計り知れない。しかし自己と徹底的に向き合った辻はスミス氏の教えである「唯一無二の存在」を手に入れた。また一度映画業界を離れ、現代美術家として生きていく決意をした後に訪れた出逢いによってアカデミー賞受賞という栄光を手にした彼は、「生まれて初めて、本当に素直に喜ぶことができた」と語り、スミス氏の言葉の深淵を知る。
どの言葉にも迷いのない辻の言葉は強く心に届き、読者にも多くの光を与えるだろう。彼の見る眼差しの先に何が見えるのか、どんな世界が広がっていくのか、今後も彼の作品を通して知っていきたい。
Kazuhiro Tsuji
辻 一弘(※「辻」は1点しんにょう)
1969年生まれ、京都府出身。幼少期から人の顔、もの作りに興味を持つ。独学で特殊メイクを学び、1995年、渡米。ハリウッドで特殊メイクアップアーティストとして数々の映画制作に携わる。2012年に現代美術家に転身。リンカーン、アンディ・ウォーホル等の胸像作品で注目を集める。2018年、ゲイリー・オールドマンからの熱烈なオファーで参加を決めた『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(監督:ジョー・ライト)で第90回アカデミー賞メイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞。日本人初の快挙となった。
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