並行世界の存在、両世界の雌雄が交尾することによる突然変異、そして《向こう側》の技術から権益を得ようとする超大国の策謀など、作品世界の設定は壮大である。しかし設定だけで小説はものにならない。それを駆使して、何をどう描くかについて、『フェイスレス』は至芸を見せつける。
製薬会社でシロアリの研究をしている早川透は、友人の北岡の婚約者・可奈恵に懸想していた。二人のデートが台無しになればいい……そんな想念に駆られた透は、彼ら二人と同乗した自動車の不具合を指摘しなかった。結果、可奈恵が事故を起こし、北岡は死んでしまう。透は罪の意識に苛まれて転職し、傷心の可奈恵と結婚する。
その事故から九年。アメリカのネバダ州では、不法移民を被験者として、ある実験がおこなわれようとしていた。被験者たちはアリを九十匹駆除するよう通達されるが、このアリが問題だった。実は世界は九年前に分岐しており、アメリカは、秘密裏に《向こう側》の自国と交流していたのだ。そしてその連絡手段発見の契機となったのが、そのアリの存在——二つの世界のアルゼンチンアリが交わって進化した、殺人アリの出現だったのである。そして阿鼻叫喚となった実験の渦中で、《向こう側》から来た学者の一人が、女王アリを持ったまま脱走した。彼の名は北岡。《向こう側》では事故で死んだのは可奈恵であり、北岡は生き残っていたのだ。日本に向かった北岡を連れ戻すため、《向こう側》のF(フェイスレス)と名乗る男が派遣される。
一方、透と一女を儲けていた可奈恵に、北岡の声で電話がかかってくる。動揺する夫婦の前に、Fが現れた。醜い傷跡を隠すためバイオスキンを装着していると言うFは、自分こそが《向こう側》の早川透だと主張し、北岡確保への協力を求める。
物語の中心には、透、可奈恵、北岡、Fの愛憎劇がある。こちら側の人物にとっては北岡が、向こう側の人物には可奈恵が、それぞれ故人に当たる。普通ならあり得ない、亡き想い人/想われ人との邂逅が、人間関係を根幹から揺さぶる。さらに、事実上の主役である早川透は、心理的にさらに厳しい状況に置かれる。防げたはずの事故を故意に看過した事実を、その動機に至るまで詳細に証言することができる《もう一人の自分》が眼前にいるからである。通常、妻の死んだ恋人は再び現れないし、自分自身があの時あの場所で何を考えていたかがほじくり返されることなどない。また自分の知られたくない内面が他人にバレることも、自白しない限り、あり得ない。しかし、本書ではそれらが起きてしまうのだ。過去の自分の内面が、今の自分に牙をむくわけである。これはSFでしかあり得ない事態であり、空想の産物ではあるが、その迫真性といったらない。これぞフィクションの醍醐味だ。
種が突然変異する設定も、地味に利いている。アリの事例から、両世界の男女が作った子は超進化するとの仮説が生まれており、北岡かFが可奈恵とそのような行為に走るのではとの不安が、物語に常に寄り添っている。このことは、どうということもないシーンにおいてすら、作品に一定の緊迫感をもたらすのである。
作品の長さが三百ページ弱に収まっているのにも驚かされる。この少ないページ数で、作者は各人の性格を掘り下げ、背景と設定を十全に描き尽くし、考えさせられる台詞や手に汗握る場面を十分用意しつつ、詰め込みによる窮屈さを一切感じさせない。これがどれほど難しいことか、読書家ならわかるはずだ。力作が、洋の東西を問わず、徒に長大化する傾向がある昨今、この簡潔さは胸がすく。
作者の黒井卓司は一九六〇年生まれ。『フェイスレス』は、日本ホラー小説大賞最終候補作を改稿したデビュー作『さよならが君を二度殺す』(角川ホラー文庫)から実に五年ぶりの第二長篇である。時間をかけた甲斐ある、練達の至芸をしっかり見届けていただきたい。
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