【カドブンレビュー×カドフェス2017】
スパイ小説といえば、たとえばジャック・ヒギンズ『鷲は舞い降りた』。第二次世界大戦下、チャーチル首相誘拐の密命を帯びて英国領内に潜入したドイツ落下傘部隊員たちの冒険。ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』。東西冷戦下、英国情報部に20年にわたり潜り込むソ連の二重スパイをめぐる、数々の裏切り。髙村薫『リヴィエラを撃て』。“リヴィエラ”を名乗る東洋人スパイを追って壮大なスケールで展開される国際諜報戦と、その渦に消えていく数々の父子の歳月。
それぞれに登場するエージェントの背後には、常に国家や組織、それらの謀略があり、彼らをスパイに育てあげた土壌がある。積みあがってゆく無数の死と不条理と裏切り。その悲哀を描き尽くすのが常だった。
『ジョーカー・ゲーム』はこれまでのスパイ小説とは、違っている。
陸軍内に極秘裏に設立されたスパイ養成学校“D機関”。日中戦争勃発後の混沌とした時代を背景に、機関の発案者・結城中佐と機関員たちが国内外で繰り広げる熾烈な諜報戦の数々を描いていくが、そのなかで一貫して、彼らは誰も殺さない。
自ら死を選ぶこともない。“見えない存在”に徹するスパイにとって、死はあまりに目立ちすぎる。
彼らはとらわれない。この世界の何ものも信じることなく、情愛や憎しみを切り捨てて悲嘆もなく、祖国や友のために死ぬという甘美な夢も見ない。敵、時に味方さえ欺き、自分のみを信じて成すべきことを成すだけ。
「死ぬな、殺すな、とらわれるな」
この戒律のもと、極限状態を乗り越えてゆく“顔のない名無しの男”たちの物語はごく短く、しかし鮮やかな印象を残して個々に完結していく。
世界大戦へと向かう黄昏の時代に蠢く“魔王”たる結城中佐とその配下たち。彼ら、スパイの美学を極める頭脳戦は、おそらくスパイ小説やミステリ小説にあまり馴染みがないひとをも魅了することと思う。
『ジョーカー・ゲーム』の続刊として、シリーズ『ダブル・ジョーカー』『パラダイス・ロスト』『ラスト・ワルツ』があり、“D機関”の活躍を描く短編が収録されている。インテリジェンス・ミステリの世界を存分に楽しんで、その後には、スパイがスパイであった時代に思いを馳せてみてほしい。
やがて日本は海軍による真珠湾攻撃を発端に米国と開戦、太平洋戦争が始まり、多くの犠牲を出しながら敗戦への道をひた走る。
人々の思考、行動の先を読み、未来を冷静に予見しながらも、彼らに最悪の事態を止めることはできない。その時スパイはスパイとしての意味を失い、偽りの名前も顔も失って史実のなかに消えていく。
スパイは決して歴史を変えることができないが、それもまた彼らの美学なのだと気付かされるだろう。