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レビュー

原田マハ、渾身のアート・エンタメ! 香港を舞台に、幻の傑作を悪徳コレクターから守り抜け!『アノニム』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(解説:たかはし みず / CHATエグゼクティブディレクター兼チーフキュレーター)

 2016年に香港に移住して、4年の月日が経った。2019年の初夏から、香港は揺れに揺れている。香港政府によって4月に提案された逃亡犯条例改正案は、100万を超える香港人が集まる抗議活動を引き起こし、毎週末になると街中では警察と抗議者による衝突が繰り返された。抗議運動は2014年の雨傘運動をしのぐ勢いとなり、観光客は激減。続く新型コロナウィルスの感染拡大により、普段は人にぶつからないで歩くのがやっとなほど混雑している繁華街も閑散となった。3月の香港は本書にも描かれているように、世界的に権威のあるアートフェア、アートバーゼル香港が開催されるので、海外からのアーティストやコレクター、キュレーターたちが一堂に集い、連日オープニングやパーティーが開催される華やかな時期なのだが、今年はこうしたイベントもすべてキャンセル、ソフトロックダウン中の香港の街を、水を打ったような静寂が包んだ。

 そんな中、久しぶりに『アノニム』を読み返して、原田さんの観察力と記憶力、想像力に改めてうならされた。アートバーゼル香港前夜には、世界各国から富に裏付けされた力を見せつけようとするアートセレブや億万長者のコレクター、そして巨額のアートセールスの機を逃すまじとの目たかの目のディーラーたちが集まる。彼らのさまざまな欲望や思惑が香港の湿気の高い気候と相まって、独特の熱気を作り出し、都市を包む。『アノニム』を読んでいると、そのむせ返るような熱を帯びた空気がいつの間にか私の周りに立ち上り、例年の3月の香港のけんそうが戻ってきたかのような錯覚を覚える。そして、そんな世界とは無縁の、自分たちの都市の未来を憂う香港の若者たち。香港という都市で普段は交わることのない、この二つのパラレルワールドに生きる人びとをアートでつないだところに、原田さんのアートの力に対する絶大な信頼が感じられる。



 億万長者に世界的な美術史の権威、名物オークショニアやゴッドハンドを持つ修復家といった、アート業界の裏と表両方で活躍するプレイヤーが集まったアート義賊団(?)アノニムが、香港でのミッションの相方として目をつけたのは、難読症の高校生、チヨンインチヨイ。まだ香港の外の世界を知ることもなく、家族と暮らす狭い部屋の中で母親に文句を言われながら、掛け声もいさましく、バケツの中のペンキを床に置いた新聞紙の上にで滴らせて「作品」を完成させる。その技法が、はるか昔、アメリカでジャクソン・ポロックという画家が発明した「ドリッピング」だということも知らないで。それにしても、この張英才というキャラクターは、あまりに見事に香港の若者の特徴を備えている。自信家だけどシャイで、ちょっとおくびよう。ちゃっかりしたところがありながらも正義感が強く、ひどく純粋で優しい。私が勤務するアートセンターも、彼と同じDNAをもった香港の若者たちによって支えられている。

 本書はジャクソン・ポロックの幻の作品「ナンバー・ゼロ」をオークションで競い落とそうとする冷血なコレクター、ゼウスと彼の手下である美術専門の窃盗団のリーダー、そして彼らの魔の手からこの傑作を守りつつ、人間やアートの可能性を張英才や香港の若者に伝えるアノニムの活躍を描くエンターテインメントだ。香港のラグジュアリーなホテルや思わず汗をにぎるオークションのシーン、メガネ型ウェアラブル端末〈アイ〉やスマートフォン〈ハッチ〉といった、007ダブルオーセブンばりの小道具など、うっとり、ワクワクするようなエンターテインメント要素に満ちているが、こうしたキラキラした描写の間にそっと挟み込まれているエピソードにこそ、原田さんの本領が発揮されているような気がする。

 アートワールドのスタープレイヤーの集合体、アノニムに比べれば、張英才や彼がひそかにあこがれる同級生のユーランはごく普通の高校生だ。香港の民主主義の保持を訴える学生の政治集会にも関心を持ってはいるものの、自分たちが主体的に世界を変える可能性を秘めているなんて、これっぽっちも思っていないし、自分たちの力など、大きな力の前には無に等しいとあきらめすら感じている。特に張英才は難読症のため、クラスの仲間からもなんとなく置いてけぼりにされているようだ。そして彼の周囲には、英才の絵画に対する情熱を理解する環境もない。英才が果たして本当にな才能のペインターであるのかどうかは未知数だ。しかし、彼は絵画の制作に集中しているときは、自分のハンディキャップについて忘れられ、刷毛から滴り落ちる色とりどりのペンキが足下に敷き詰められた新聞紙の上で描き出す画面空間に没頭することができる。誰に認められようとか、アートワールドで一旗あげようなどという邪心すらなく──。

 この彼の絵画に対するパッションに目をつけたのが、アノニムのリーダーで大富豪、ジェットだった。重要なのは、ジェットが英才の作品ではなく、彼の絵画制作に対する純粋な気持ちに価値を見出したことだ。ジェットは英才のアートに対するひたむきな心に、家族を養い、生計をたてるために自分のアーティストとしてのオリジナリティを放棄せざるをえなかった父親のかつての姿とその背中を見て育った自分自身を重ねる。

 ITビジネスで成功をおさめ、今は自分が欲しいと思えばおそらくどんな作品でも購入することができるだろうジェットは、しかしアートの本質を忘れることはなかった。きらびやかでゴージャスに見えるアートワールドは、アート作品そのものとは実は全く関係がない。彼は知っていた。アートとは、人間の善きところ、悪しきところもすべて飲み込みながら、複雑な美をたたえ、私たちの感覚を刺激しながら過去、現在を一筋の光で繫ぎ、人間の可能性について確信させる力を持っているものだということを。

 英才がアノニムのメンバーとオンラインで交流しながら学んだのは、美術史におけるポロックの偉大な貢献だけではなく、優れたアート作品が人々に与えることができる勇気や希望だった。そしてアノニムのメンバーたちはこうしたアートの力が、一部の富裕層にのみ独占されるべきではないという意思のもとに団結している。この点において、アノニムがアジア経済のハブであり、タックスヘイブン、そして民主主義と資本主義の間で揺れる香港で活躍を繰り広げたのはもっともなことなのだ。なぜなら、アノニムの生みの親であり、本当の黒幕である原田マハは、金融資本によって支えられる物質主義には降伏しないアートの精神的な価値こそが、人々を魅了し、世界を豊かなものにすると知っているからである。

原田マハ『アノニム』詳細ページ(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000318/


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