香港の高校生、自称天才アーティスト、英才(インチョイ)。
絵の具やカンヴァスを買う金もなく、工事現場からくすねてきた刷毛とペンキで床一面の新聞紙に「作品」を描く。
そんな彼のもとに、一通のメッセージが届く。
――たった一枚の絵で、世界を変えてみないか?
それはとてつもなく不思議で、心躍るメッセージ。差出人の名は〈anonyme(アノニム)〉。
学生たちによる反政府デモに沸く、10月の香港で開催されるオークション。そこに超目玉作品として登場する、抽象表現主義の旗手ジャクソン・ポロックの幻の大作「ナンバー・ゼロ」。
超一流の美術品を、手段を選ばず蒐集し続けるという昏い欲望のままに、落札を狙う富豪〈ゼウス〉。
それが〈ゼウス〉の手に渡る前に、贋作とのすり替えを目論む謎の窃盗集団〈アノニム〉。
急速に成長するアジアのアートマーケット。交差する巨万の富と美術品。更新し続ける最高落札額。わずか数分で数億ドルが流動する舞台。優雅な狂乱の裏で展開する、貌の見えない〈アノニム〉と〈ゼウス〉の駆け引き劇が、英才の才気と絶望によって疾走する。
なぜ〈アノニム〉は英才を見出したのか。作中で〈アノニム〉のボス、ジェットは語る。「似ている」と。
若かった頃の父に。若かった頃の自分に――。
たぶん英才は、すべての誰かに少しずつ似ている。
文字を読むのが苦手。絵を描くのは誰より得意。彼の家は貧しく、両親は息子の才能を理解しない。ムカつくクラスメイト。でも気になる女の子がいる。なにかを変えてくれそうな学生デモへの期待と閉塞。自分が世界の底辺にいるという取り残された感覚。そこから立ち上がって闘う衝動。時に臆病で時に大胆な、17歳の少年。
英才のなかに、昔や今の自分を重ねることができる人はたくさんいるはず。
わたし自身が英才に見出したのは、彼とは正反対に自信を持ちきることができなかった昔の自分の姿。絵を描いていたころのわたし。自信を持って進めたら、わたしにとっての世界は今と少しは違っていただろうか。世界のドアを見失ったままここまで来たわたしにとって、英才と英才によって引き込まれた『アノニム』の物語は、死んでいたところをたたき起こされるような眩しさに満ちていた。
この本を手に取って、episode 1を読んでみてほしい。もしその時に、英才のなかに同じ感情、いつか抱いた理想を見出したなら、少しの間(この物語は10月のたった一週間の出来事だ)、彼に自分を重ねて、一緒に叫んで、進んで、生き抜いて、見てほしい。一枚の絵を通して変わっていく英才と、変わっていく人々によって変わるかもしれない世界を。
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