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レビュー

天才でエゴイスト 誰も彼女には手が届かない――『喜べ、幸いなる魂よ』佐藤亜紀 文庫巻末解説【解説:深緑野分】

第74回読売文学賞(小説賞)受賞作
『喜べ、幸いなる魂よ』佐藤亜紀

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。



『喜べ、幸いなる魂よ』文庫巻末解説

解説
ふかみどり わき(作家)

 歓喜の歌声が聞こえる。高らかに朗らかに、幸いなる魂と主をたたえる歌が天地に響き渡る。いったい何が魂なのか、神の真意も、どうすれば神のおんちようを受けられ天国の門を開かれるのかもわからないが、この本を閉じて心に流れるのは、祝福に満ちた賛美の歌だ。
 とはいえ、本書の主人公のひとりは「人でなし」とののしられる人物である。
 ヤネケ・ファン・デールは、十八世紀中頃のフランドル地方の商家に生まれた。幼い頃からすさまじく頭が良く、成長すれば父の商売である亜麻の卸業も簡単にさばけただろうし、地元の小都市シント・ヨリスを出て大都市ルーヴェンの大学に行けば、天才として迎えられ、あらゆる新しい実験と検証を試みて論文を書き、頭の固い学者たちに一泡吹かせて学会に認められる存在になっただろう。だがヤネケは女だったし、頭の良い女がどんな扱いを受けるか知っていたし、時間を浪費したくもなかった。
 ヤネケの兄弟には双子の弟テオ、そして養子として迎え入れられた一つ年上のヤンがいる。三人の仲は良かった。さといテオはヤネケに一目置いて尊重し、血のつながらないヤンは、ヤネケを愛した。ヤネケもふたりを愛した。両親のことも愛した。ただ彼らの愛し方とは違って見えるだけで。
 本書は骨が太く、美しく多層的で奥が深い傑作である。傑作たらしめている理由のひとつとして、複数の視点と価値観の内包が挙げられる。多くの読者が共感する視点人物はヤンだ。父を亡くし母が再婚したことで里子に出され、父の友人ファン・デール氏に引き取られた少年は、性格が良く実直な働き者で、一代記としての大きな物語の主人公に相応ふさわしい。彼の視点から見る、十八世紀フランドル地方の町の生活や、素朴な人々の息づかいは豊かで、物語を読むだいが味わえる。ヤンは本当に遂げたいこと、ヤネケと共に暮らしたいという願いを隠し、思い通りにならない激しい荒波の中をどうにかそうして、ファン・デール一家の危機を何度も乗り越えていく。大切な人の死や出会い、新たな生命の誕生を経て、ヤンの人生は力強くも繊細なタペストリーとなり、本書そのもののほうじようさ、面白さを確固たるものにする。
 しかしヤンの視点だけで読むのは少しもったいない。やはりヤネケだ。常人には手が届かない彼女の視点や思考を辿たどって読んでいくことで、更なる面白さを発見できる。
 冒頭、まだ若いヤネケはヤンを誘って繰り返し性交し、妊娠、出産する。ヤンの方は身も心もヤネケにかれるが、彼女は応えない。親の指示に従って旅立ち、子を産むと、里子に出して、シント・ヨリスに戻るなり地元のベギン会に入ってしまう。それでヤネケは「人でなし」になったが、もちろん彼女は間違いなく「人」である。
 十代の好奇心むき出しのヤネケが没頭したのは、生命繁殖の謎と失楽園の検証だ。フランスの博物学者ビュフォンが執筆した『一般的及び個別の自然誌』を読み、有機的粒子の仮説を知ると、今度は兎の交尾を観察し、なぜアダムとイヴはエデンの園を追われるまで交尾しなかったのかと問う。そして当たり前の思考の帰結として、人体実験を試みる。ちょうどいい相手がそばにいた。ヤンだ。そして行為を繰り返し、様々な体位まで試して、性交とは何かを検証する。ヤネケは交尾中の兎たちの気持ちを理解し、神が創世記で奨励した「生めよ、ふやせよ、地に満ちよ」を可能にしたものを知った。
「兎は目を細めて答えた──幸せですよ、だってとても気持ちがいいし、その後はお互いのことがもっと好きになるし、可愛い子供たちまで生まれるんですから」
 これはヤンを観察して出てきた答えなのか、ヤネケ自身がヤンとの交流の間に感じたものなのか。振り回されるヤンやまわりの人間にとってはとんでもないだろうが、ヤネケはおそらく、先に合理性や論理的思考があって、後から感情がほんのりとやってくるタイプなのだろう。そして遅れてきた自分の感情の形を探り、他人ひとごとのように研究し、面白がる。やれやれとあきれながらも優しく目を細め、ひそかに大切にするのだ。
 ともあれヤネケは生き物が繁殖したくなるための作用を知ると、次の課題、次の未知や謎に没頭していく。りんの木を育て、執筆した確率論の論文をテオやヤンの名前で出版しつつ、実家の帳簿を見、新しい望遠鏡を使って皆既につしよくの投影を試みる。ヤネケの視点から辿る物語は、科学と数学的理論、生物学と神、魂との問答と探究を読む面白さがある。彼女が人々、主にヤンとレオに向ける見えにくい愛の形を知ることも。
 また、本書を更に奥深くしているものとして、ベギン会の存在も欠かせない。今で言う女性用シェルター的な場所が中世から近代に至るまで存在していたことの指摘は、歴史学としても現代への指針としても役に立つ。考えたいことを考え、働き、自分の力でこつこつと金を稼ぐ女の「うん、みんな長生きだもの。男がいないって体にいいんだよ」というセリフは、軽々と堂々と歩くベギンの痛快さを表す名言だ。
 そして何より、教会に属しつつも縛られるほどではないベギンという立場を描くことで、より柔軟でありながら知的な、神と魂の追求が小説と融合したように思う。十八世紀の、宗教改革の波が去った後にやってきた合理主義、けいもう主義の台頭を目の前にする宗教と社会。シント・ヨリスの院長が亡くなり、遺品としてヤネケに託された『素朴な魂の鏡』の写しが示す意味。院長から写しを依頼されたヤネケが見抜いたとおり、『素朴な魂の鏡』を書いたのはマルグリット・ポレート、ベギンであったと言われている。彼女は異端的教説を広めた嫌疑で異端審問にかけられ、一三一〇年に火あぶりの刑に処された。そのため禁書となったが、密かに修道院で読み継がれたのは史実であり、本書でも院長の手からヤネケの手に渡る。ポレートは魂と自由意志について論じていたと言われており、ヤネケ、あるいは院長が何を考えていたのか思考することは、読書に一層の深みを与えてくれるだろう。
 それにしても本書のベギン会といい、『スウィングしなけりゃ意味がない』のスウィング・ボーイズといい、『黄金列車』の黄金列車といい、佐藤亜紀の著作ではじめて知ることができた史実や組織は数多い。小説内に溶け込むさらりと書かれた単語や情報の中に、膨大な知識量と並外れた取材力が詰まっている。毎回脱帽するが、こうして知らないことを教えてもらえるのは、読者としても小説家としてもありがたい。
 ヤンとヤネケの他にも、弟のテオ、ふたりの息子レオ、ベギン会のアンナ・ブラルや、ヤンの妻となった女たち、子どもたちにも焦点が当たり、様々な価値観や憎しみ、愛が折り重なって旋律を奏でる。やがて技術革新が起き、未来が希望と横暴を両手にやって来て、物語は転調する。教会はじゆうりんされ、これまでの価値観が強制的に変えられていく。
 キリスト教の教えでは、「幸いなる魂」が頻繁に登場する。受胎告知を受けた後のマリアは幸いな女となり、イエスはどのような人が幸いな人なのかを説き、幸いなる魂は天国の門をくぐる。十八世紀に作曲されたバッハの「マニフィカト」やモーツァルトの「エクスルターテ・ユビラーテ」でも、幸いなる魂を讃えている。肉欲が動機ではない性交で子を成したヤネケを「幸いな女」聖母マリアになぞらえるのも解釈のひとつだが、理性が生み出したレオは女性べつと憎悪むき出しの「鬼子」になってしまったし、教会を排斥して近代国家を形成する者として再来する。幸いなる魂とは何だろうか、誰がそんなものを持っているのだろうか。
 しかし神の恩寵は等しくすべてに注がれているのではないかと、本書を読むと思う。生めよ、ふやせよ、地に満ちよ。満ちた我々がどう生き、どう殺し合い、どれほど残酷な未来を連れて来ようと、満足して死ぬ瞬間に高らかに鳴り響くのは、馬鹿みたいに明るく朗らかな賛歌かもしれない。

“歌え、喜べ、幸いなる魂よ。甘やかな歌を歌え。そなたの歌声にこたえて、天も我と共に歌いたもう。”(Exsultate, Jubilate KV165 (158a) I. Allegro)

作品紹介・あらすじ



喜べ、幸いなる魂よ
著 者:佐藤亜紀
発売日:2024年01月23日

天才でエゴイスト 誰も彼女には手が届かない――第74回読売文学賞受賞作
【第74回読売文学賞(小説賞)受賞作】18世紀ベルギー、フランドル地方の小都市シント・ヨリス。ヤネケとヤンは亜麻を扱う商家で一緒に育てられた。ヤネケはヤンの子を産み落とすと、生涯単身を選んだ半聖半俗の女たちが住まう「ベギン会」に移り住む。彼女は数学、経済学、生物学など独自の研究に取り組み、ヤンの名で著作を発表し始める。ヤンはヤネケと家庭を築くことを願い続けるが、自立して暮らす彼女には手が届かない。やがてこの小都市にもフランス革命の余波が及ぼうとしていた――。女性であることの不自由をものともせず生きるヤネケと、変わりゆく時代を懸命に泳ぎ渡ろうとするヤン、ふたりの大きな愛の物語。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322302000992/
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