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傑作シリーズついに完結。カーネギー賞受賞!ナルニアの終わりのその先は?――『新訳 ナルニア国物語7 最後の戦い』C・S・ルイス 文庫巻末訳者あとがき【訳者:河合祥一郎】

かつての主人公らも登場し、衝撃のラストへ!
『新訳 ナルニア国物語7 最後の戦い』C・S・ルイス 

角川文庫の巻末に収録されている「訳者あとがき」を特別公開!
本選びにお役立てください。

新訳 ナルニア国物語7 最後の戦い』著者:C・S・ルイス



『新訳 ナルニア国物語7 最後の戦い』文庫巻末訳者あとがき

訳者あとがき
河合祥一郎

 本書は、ナルニア国物語の最終巻(原題はThe Last Battle)である。訳稿は、角川つばさ文庫より『新訳 ナルニア国物語 (7)最後の戦い』として刊行したものに大幅な改訂を施して作成した。
 この巻でナルニアの滅亡が描かれることに衝撃を受けてきたナルニア・ファンは多い。なぜ、私たちの愛するナルニアの世界を、作者C・S・ルイスは壊してしまわなければならなかったのか。その意図を理解するためには、彼のキリスト教哲学を知る必要がある。まず、人の世界は滅びるが、神の国(アスランの国)は滅びないということ、そして神の国、つまり天国では、永遠の至福があるとされる意味をしっかり考えなければならない。その意味が正しく理解できれば、私たちのいとしいナルニアは神の国において不滅なのだとわかるだろう。
 ルイスは、一九六〇年六月八日付の少女パトリシア・メアリ・マッケイ宛ての手紙に「もちろん、(『最後の戦い』の)最後の審判の直前のサルとパズルは、世界の終わりのアンチキリストの出現のようなものです」と記している。
「反キリスト」(「偽キリスト」と訳されることもある)については、『新約聖書』「マタイ伝福音書」第二十四章第四~十四節に次のような言及がある(日本聖書協会の文語訳より引用する)。「イエス答へて言ひたまふ『なんぢら人にまどはされぬやうに心せよ。多くの者わが名をおかきたり「我はキリストなり」と言ひて多くの人を惑さん。又なんぢら戰爭いくさと戰爭の噂とを聞かん、つつしみておそるな。かかる事はあるべきなり。〔中略〕されどをはりまで耐へしのぶ者は救はるべし。くにのこの福音は、もろもろの國人にあかしをなさんため全世界にのべつたへられん、しかしてのちをはりは至るべし』」
 パウロもまた、キリスト再臨の前に「不法の人すなはち滅亡ほろびの子」が現れて、「すべて神ととなふる者および人のをがむ者」に反抗してごうまんにふるまい、ついには「聖所にし己を神として見する者なり」と告げる(「テサロニケ人への後の書」第二章第三~四節。「ヨハネの第一の書」第二章第十八節、「ヨハネの第二の書」第七節にも言及あり)。
 最後の審判については、「ヨハネの黙示録」第二十二章第十四~五節に、心の清い者は「門を通りて都に入ることを得る」が、そうでない者は「外にあり」とあるのを踏まえ、本書ではアスランの右側を通って門から入る者たちが「もっと上へ、ずっと奥へ」のぼって天国へ至るが、そうでない者たちが暗闇に消えていく様子が描かれる。
 最後の戦争(最終戦争)については、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる場所で繰り広げられた善と悪の戦について「ヨハネの黙示録」第十九章第二十節に次の記述がある──「かくてけものは捕へられ、又その前に不思議を行ひて獸の徽章しるしを受けたる者と、その像を拜する者とをまどはしたるにせ預言者も、これとともに捕へられ、二つながら生きたるまま硫黄の燃ゆる火の池に投げ入れられたり。」
 本書では、偽預言者役を演じさせられたパズルに罪はなかったとして救われるが、「獣」ことシフトがたどった運命は、聖書に記されたものに近いと言えるだろう。
 こうして最終戦争が終わると、「新しき天と新しき地とを見たり。これさきの天と前の地とは過ぎ去り、海もまたなきなり」(「ヨハネの黙示録」第二十一章第一節)となるが、これは新しいナルニア、すなわち本物のナルニアが、アスランの国にいだされることにつながる。
 もちろんナルニア国物語は聖書とは別個の物語であり、聖書と重ねて読むべきでない側面もあるものの、いくつかのイメージの呼応があることは否めない。たとえば「マタイ伝福音書」第二十四章第二十三~六節の記述──「『よ、キリストにあり』あるひは『にあり』と言ふ者ありとも信ずな。にせキリスト・僞預言者おこりて、おほいなるしるしと不思議とをあらはし、べくば選民をもまどはさんとするなり。『よ、彼はあらにあり』といふともくな『よ、彼は部屋にあり』と言ふとも信ずな」──の最後にある、「偽キリスト」が内なる「部屋にあり」と言われても信じるなという表現は、馬小屋のなかに偽アスランを隠しておいたシフトのやり方を想起させる。そして、終末の日に太陽は暗くなり「月は光をはなたず、星は空よりち」、天に大きなラッパの音が響きわたるという描写(マタイ24:29~31、マルコ13:24~27、ルカ21:25~28)も本書の描写と呼応する。また、タシュ神に仕えていたエメスがアスランによって「なんじがタシュにささげたことは、私へのささげものと考えよう」と受けれられるくだり(200ページ)は、「コリント人への前の書」の「たまものことなれども、たまは同じ。つとめことなれども、しゆは同じ」(12:4~5、「使徒行伝」17:23参照)に基づくと言えるだろう。ちなみに、『旧約聖書』「詩篇」第百四十五篇第十八節にある「すべてエホバをよぶもの まことをもてこれをよぶものに エホバは近くましますなり」における「誠」は原語のヘブライ語で「エメス」なのだと言う。
 このようにして考えていくと、ルイスは、ナルニアの終末を描くことによって、「現世は仮の世に過ぎず、本当の至福は神の国にある」ということを子どもたちに伝えようとしたのではないかと推察できる。子どもにとって死は受け容れがたいものであるが、人生には必ず終わりが来ることを認識し、自らの死を恐れることなく、神のゆるしと愛とを感じて生きられるようになって初めて十全たる人生が送れるのだとするならば、いずれは神の国へ行くことの意味を知っておく必要がある。ルイスは、そのためにすでに第四巻『銀の椅子』の最後で伏線を敷いている。ユースタス・スクラブとジル・ポウルを一時的にアスランの国へ入れ、死んだはずのカスピアンに会わせたのである。カスピアンは言う──「今ぼくがナルニアに姿を現したら、幽霊ということになるだろう。ぼくはもうナルニアの人間じゃないからね。でも、自分の国〔天国〕にいるんだから、幽霊ということにはならない」(262ページ)。そして、アスランはユースタスらに言う──「きみたちが私にここ〔天国〕でふたたび会うとき、それはここに永遠にとどまるときだ。しかし、それは今ではない。しばらくのあいだは、自分の世界にもどらなければならない」(263ページ)。そして、本書において「永遠にとどまるとき」がやってくるのである。
 時の流れについて、ルイスは「時を超えた時」という文(Mere Christianity, 1952 所収、邦訳『キリスト教の精髄』柳生直行訳、新教出版社、一九七七)において、神は、人が経験する「時」とは別の次元にいると語る。永遠である神は人が考える時間軸を超越して存在するのであり、キリスト教では、神の国(天国)において神とともにあれば永遠の至福を享受できるとされる。だからこそルーシーは、自分がその至福を得たのだと感じ取って「あまりにもしあわせすぎて、口もきけないくらい」になる(174ページ)。
 しかし、ルイスは神学者である前に文学者である。私たちは説教を聴いているのではなく、ルイスが築いた文学世界を享受しているのであって、そこにはキリスト教世界からの逸脱がある。たとえば、ナルニアは滅亡してしまうかもしれないが「もっと本物に見える」ナルニアが私たちの心のなかに存在しており、それこそが重要なのだと言う(206ページ)とき、ルイスはプラトン哲学のイデアを用いている(「すべて、プラトンにある」207ページ)。プラトン哲学はキリスト教以前の考えである以上、ここにある種のレトリックが働いていることは否めない。さらに言えば、ウエスタン・ミシガン大学教授グレイス・ティファニー(Grace Tiffany, “The Anti-Platonic Platonist,” Christianity and Literature, Vol. 63, No. 3 (Spring 2014), pp. 357-37)が指摘するとおり、プラトンに依拠するように見えて、ルイスは実はサー・フィリップ・シドニーの言う「文学的な想像力にこそ真実がある」という発想に依拠していると考えるべきであろう。それが最も端的に現れるのは、『銀の椅子』で、沼むっつりがこう言うときだ──「そうした心のなかで想像した物事のほうが本物よりもずっとずっと大切なのだ」(201ページ)。この発想は実はキリスト教を超越して、シェイクスピアをも巻きこむ想像力の問題へと発展することになる。『夏の夜の夢』第五幕第一場で恋人たちが経験した「夢」のような体験は実は「夢」ではなく、「単なる夢幻とは思われず、しっかり筋の通った現実である」と言われるように、心のなかで経験したことは、それが夢であろうが小説であろうが、実際に経験した現実となるからだ。読者が経験したナルニアは読者の心に生きているのであって、それは時間を超越して存在するのである。ナルニアは永遠に生き続け、読者は何度でも「ナルニア国物語」を読み返し、ルーシーが洋服だんすを通りぬけて白い雪が舞い散る森に街灯がともっているのを見つけて驚く衝撃をふたたび味わい、タムナスさんが初めてルーシーと出会ってびっくりして荷物を取り落とすこつけいを感じることができる。サンタクロースはいつの時代でも、子供たちにプレゼントを渡すおじいさんであって、決して死んだりはしないように、神話や物語の時間は常に永遠なのである。
 私たちは「ナルニア国物語」を読み、そして読み返すことで、物語世界をいつまでも楽しめるし、将来の子供たちもこの物語を楽しむことで、この物語の永遠性は保証される。しかし、物語第一巻では九歳だったルーシーも本書では十七歳となり、『魔術師のおい』で十一歳の少女として登場したポリーは本書では六十歳となって登場しており、物語内の時間は経過する。私たちの人生でもそのように時間は経過しているが、実際に重要なのは、そうした物理的な時間経過そのものよりも、ある瞬間にどう生きたかということなのだと作者ルイスは言っているように思われる。
「生きとし生けるものは、必ず死ぬ」(『ハムレット』第一幕第二場)ということを考えたとき、大切なのは、そのはかない人生をどう生きたかということなのであり、限りある私たちにとっての永遠とは、私たちの心のなかに生きつづけるものでしかない。
 人は、肉体を超越して精神的に満たされた生き方ができたときに、最も至福を味わうことができる。ルイスは、その最高の至福は神とともにあると信じる信仰によってもたらされると考えた。本書の最後でアスランの姿が「ライオンのようには見えなくな」ることが語られているが、そのことは第三巻『夜明けのむこう号の航海』の最終章においてすでに示唆されていた。「あなたは、ぼくたちの世界にもいるのですか」というエドマンドの問いに、アスランは「私は、いる」と答えて「しかし、そこでは、私は別の名で呼ばれている」と言う。第三巻の「訳者あとがき」でも触れたが、この「私は、いる」(I am)は、「ヨハネによる福音書」第八章第五十八節で語られるように、イエス・キリストの言葉そのものなのだ。そして、アスランの言う「そこ」とは現世を指す。神の国は現世に生きる私たちの心のなかにあるという言い方もできるだろう。

    *

 角川つばさ文庫の第七巻の「訳者あとがき」で簡単に触れたことでもあるが、エドマンドがティリアン王に、「十二人ほどのこびとがやってきた。それから、ジルとユースタス。そして、最後に、あなた自身が来たというわけです」(177ページ)と語っている順序の矛盾について、ここでもう少し詳細に語っておくことにしよう。
 馬小屋の戸口のなかへ入っていった順序を追うなら、まずエメスが自ら志願して、馬小屋へ入り、なかで刀をかまえていたカロールメン人を戸口の外へ放り出した(139ページ、176ページ)。つぎに、ティリアンがシフトを馬小屋に放りこむと、まぶしい緑っぽい青い光がさくれつして大地が揺れた(143ページ)。そのあと、足をばたつかせて抵抗するユースタスが放りこまれた(155ページ)。それを見て涙を流したジルは、それでも弓はぬらすまいと気をつけて射つづけた(156ページ)。やがてナルニアの馬たちを矢で射殺したこびとたちが、タルカーンに捕まって馬小屋に放りこまれた(157ページ)。ティリアンは必死に戦ううちに、ジルが髪の毛をつかまれて連れていかれるのを見る(160ページ)が助けられず、やがてティリアン自身がタルカーンもろとも馬小屋のなかへ飛びこんでいった(161ページ)。こうしてみると、物語で語られている順番と、エドマンドの記述における順番は明らかに矛盾している。これは一体どういうことなのか。
 まず、アスランの国で流れる時間と、人間の世界で流れる時間はまったく異なっていることを再度認識しておく必要があるだろう。これは、ナルニアの時間とイギリスの時間の流れ方がちがうという『ライオンと魔女と洋服だんす』からずっと描かれてきた時間差以上の意味がある。というのも、アスランの国では、「あらゆる時は、すぐだ」(『夜明けのむこう号の航海』175ページ)と言えるからであり、ルイスが前述の「時を超えた時」において、神の国では一九二〇年であると同時に一九六〇年であることも可能であると論じていることと重なる(「アスランの国では年齢がなくなる」『銀の椅子』261ページ参照)。
 さらに重要な点は、馬小屋の戸口からなかへ入れば、そのままアスランの国へ入れるとは限らないことだ。第一巻において、洋服だんすの戸をあけてなかへ入ってもナルニアへ行けないときがあったのと同じである。カロールメン人が戸口の内側に立って刀をかまえていたとき、そこは馬小屋の戸の内側でしかなかった。男は馬小屋のなかに足を踏み入れても死ぬことなく、馬小屋のなかへ入ってきたエメスと戦ったすえ、負けて倒され、馬小屋の外へ放り出されたのだった。ルーシーたちはこの男に話しかけているが、男にはルーシーの声が聞こえず、姿も見えず、あたりが陽光に満ちていることにも気づかぬ様子だった(174ページ)。一方、エメスは「戸口をくぐるや、強烈な陽光にまずおどろきました」と言っているから、直ちにアスランの国に来たことがわかる(199ページ)。そして、アスランの国の陽光に包まれたエメスは、馬小屋の暗闇にいるカロールメン人と戦い、これを倒したのだ。ちがう空間にいながら同じところにいるかのように戦った不思議は、戸口の板のすきまからのぞくと異空間が見える(173ページ)不思議と同じである。
 もちろん、のちに馬小屋に放りこまれたこびとたちが、アスランの国にいるにもかかわらず、馬小屋の暗闇のなかにいると思いこむ様子が描かれるため、同様にして、戸口の内側で刀をかまえたカロールメン人も(本人の気づかぬうちに)実はアスランの国にいたと考えることもできそうだ。しかし、結論から言えば、その場所はアスランの国へつながってはいるものの、同時に暗い馬小屋のなかであると考えるべきだろう。そうでないと、馬小屋のなかに出現したタシュ神はアスランの国にいたことになってしまうが、タシュが悪魔の権化であるなら、神の国に入れるわけはない。
 つまり、馬小屋へ放りこまれて戸口を閉められたからと言って、その瞬間にアスランの国へワープするわけではなく、そのまま馬小屋の空間内にとどまることが可能ということになる。「星っていうのは、燃えるガスでできた巨大な球体なんだけど」(『夜明けのむこう号の航海』224ページ)などと言ってしまう現実主義のユースタスには、馬小屋の戸をくぐっただけでアスランの国へ行く想像力が欠けていたのかもしれない。しばらく馬小屋のなかにいて、ジルがやってきたときに一緒にアスランの国へ入ったのだろう。いずれにせよ、現実世界では一九四九年の英国鉄道での大事故によって、汽車に乗っていたユースタスとジルは同時に亡くなったという設定になっているのだから、アスランの国(天国)へもジルと一緒に入ったはずなのだ。

 最後に、本書を児童文学の最高峰と絶賛した作家でもあり、ルイスの旧友でもあり、牧師でもあったウォルター・フーパー(二〇二〇年十二月七日コロナ禍の影響を受けて八十九歳で没す。合掌)がその著書(Past Watchful Dragons: The Narnian Chronicles of C. S. Lewis, 1971)の巻尾に記した逸話をここに紹介して全巻の締めくくりとしたい。ルイスは長年の闘病の末、一九六三年七月十五日にオックスフォードの病院に運ばれ、こんすいに落ち、危篤状態となった。神父が終油のせきを行い、フーパーをはじめとする友人たちが心配するなか、ルイスはふと目覚めると、自分が危険な状態にあったことを知らずにお茶を求めた。フーパーはそれから数週間、ルイスの枕もとにすわって、いろいろな話をした。フーパーは話すべきかどうか悩んだ末、彼が危篤状態にあったことを告げた。すると、ルイスは「ウォルター君、私に深く関わることを教えてくれてありがたく思うよ」と言った。そして、現世に思い残すことはなく、向こう側にある永遠の善きものにあこがれると話すのを聞いたフーパーが「君は自分で書いたことを本当に信じているんだね」と言うと、ルイスは驚いて目をみはって「もちろんだよ! だから書いたんだ」と答えた。その後退院してから、ルイスの手紙の口述筆記をしてあげていたときのことを、フーパーはこう記している。

「一つの手紙を彼はこう始めた。『ドアは開かれましたが、私がそれを通ろうとしたとき、目の前で閉じられてしまったのです。』それから僕の方を向いて、彼は付け加えた。『死んでしまってもよかったのだが、どうも生きるのが私の義務らしいね。どちらでもかまわなかったんだ。だが──ああ、あのドアを通ってみたかったな。』それから数か月後──ダラスでジョン・F・ケネディが殺された日、そして思うに同じ時刻に──ドアはふたたび開いた。今度は、ルイスは通っていったのである。」

二〇二二年十一月二十二日(ルイスとケネディの命日に)草稿執筆
二〇二三年四月、改訂後入稿

作品紹介・あらすじ



新訳 ナルニア国物語7 最後の戦い
著者 C・S・ルイス  訳 河合祥一郎
発売日:2023年07月21日

傑作シリーズついに完結。カーネギー賞受賞!ナルニアの終わりのその先は?
ついに完結。カーネギー賞受賞作!

【全世界1億2千万部! カーネギー賞受賞シリーズ最終巻】
児童文学の金字塔!新訳
装画:pako

●あらすじ
偽アスランの命令により、ナルニアはカロールメン国に支配された。もの言う木々は切り倒され、しゃべる馬たちは奴隷のように働かされる。ナルニア最後の王ティリアンは怒り立ち上がるが、逆に囚われの身に。ジルとユースタスが助けにくるものの、邪悪な神タシュまで現れて、もはや絶体絶命の危機に。ピーターやルーシーら、かつての主人公らも登場し、衝撃のラストへ! ついに完結。カーネギー賞受賞作! 詳細な解説付!

●新訳のここがポイント
翻訳にあたって、原作の英語の格調高さをくずさぬよう、配慮されて訳されています。「英米の子どもたちが原文を読んで味わうとおりの「楽しさ」――知らない世界に出会うときのわくわく感や(略)好奇心もふくめて――を大切にしました」「とくに原文の解釈には最新の注意をはらいました」(角川つばさ文庫版あとがきより)

・1巻第十三章で、魔女が「深遠なる魔法のことを忘れたのか?」と問われ、先行訳ではアスランが「忘れてしまったようだな」や「どうかな、忘れてしまったかもしれない」と答えていたが、アスランがそんな大事なことを忘れるはずがないので、原文の「Let us say(と仮定しよう)」を活かし、「忘れていたということにしよう」に。
・1巻第十六章のアスランの台詞は「しっかりやれよ、みんな。♪二階も一階も♪奥方様の部屋も♪だ!」とした。これはGoosey Goosey Ganderというナーサリー・ライムの一節なのでアスランが上機嫌になって歌っている、とわかるように。(先行訳ではただ命令しているだけになっている)

等々

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322007000564/
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