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レビュー

直木賞作家が描く、珠玉の短編集。――『稚児桜 能楽ものがたり』澤田瞳子 文庫巻末解説【解説:蝉谷めぐ実】

清水寺の稚児としてたくましく生きる花月。ある日、自分を売り飛ばした父親が突然面会に現れて……
『稚児桜 能楽ものがたり』澤田瞳子

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

稚児桜 能楽ものがたり』著者:澤田瞳子



『稚児桜 能楽ものがたり』文庫巻末解説

解説
せみたにめぐ(小説家)

 数多の賞を受賞し、新刊を出すたびに雑誌や新聞で紹介がされる歴史時代小説家、澤田瞳子という作家を知って、あなたは今、書店に足を踏み入れたこととする。書棚に目をやれば、澤田瞳子の作品は目立つところにずらりと並べられているはずだ。あなたは背表紙を見ながら、ふうむと腕を組む。
『星落ちて、なお』。これは第百六十五回直木賞を受賞した小説であるから面白いこと請け合いだ。『孤鷹の天』は、なるほどデビュー作でありながら第十七回中山義秀文学賞も受賞した作品。偉大な作家の萌芽を感じることができるに違いない。背表紙まで色鮮やかな『若冲』は第九回親鸞賞を受賞して、当時の若冲人気を牽引したのではなかったか。
 ここであなたは『稚児桜』を目にする。副題は『能楽ものがたり』。能か、とあなたは小さくつぶやく。高尚で日常からかけ離れた伝統芸能。この本はそんな能の知識がないと読めないものなのだろうか。それなら、手を出すのは後回しにした方がいいかもしれない。なにせ、能は教科書の中でしかお目にかかったことがないし、日本史のテストの出来は散々だった……。だが、この文庫解説を読んでいるあなたはこの本を手に取った。読み終えて、英断であったとあなたは自分を褒め称えているに違いない。
 能を下敷きにしつつも、独自の世界で描かれている人間模様の濃密さにほうっと感嘆の息を漏らしていることだろう。
 本書は八作からなる短編集で、それぞれに能の原曲が記されている。だが、この能の原曲はあくまで器、骨組みでしかなく、中に詰められているものは、復讐心、欺瞞、嫉妬といった質感のある人間の業である。
 能では当たり前に登場する幽霊、草木の精、妖怪といった存在が一切登場せず、あくまで人間の物語として描かれている。だからこそ、能の原曲と同様に霊験あらたかなもののおかげでめでたしめでたしハッピーエンド、では終わらない。
 たとえば、一話目の「やま巡り」。原曲の「山姥」は、都から来た遊女、百万山姥の前に突如本物の山姥が現れ、くせまいを一節謡ってほしいと訴えてくる。それを了承した百万山姥の曲舞にあわせて、山姥は仏法の摂理を説きながら舞を舞う。だが本作では、舞を舞うのは百万の方だ。百万が見習いの児鶴を連れての善光寺参りの道中、上路の山辺りで出会った老婆に一夜の宿を借りることになる。その礼に百万は老婆に山姥の曲舞を披露しようとするが、これこそ百万が都を出立した理由であり、そこにはこの時代だからこそ起こり得た愛憎が絡まっている。
 表題作でもある「稚児桜」の原曲は「花月」。九州筑紫の国のこと、七歳の息子を天狗にさらわれ、嘆きのあまり父親は出家し、諸国修行の旅に出る。京の清水寺に立ち寄った際、門前の男から曲舞が大層上手い花月という名前の少年の噂を聞き、花月の曲舞を目にした父親は、この少年こそ攫われた我が息子だと気づくのだ。ここで喜びの父子対面となる能の如くにはいかないのが、本作だ。著者は天狗の存在も、遊芸に堪能な少年と弓を引いて遊ぶ友達の存在も許してはくれない。
 花月は父親に売り飛ばされた清水寺の稚児である。昼は僧の身の回りの雑用をこなし、夜はねやの相手を務めるが、花月はその容色の美しさを武器に、寺内でしたたかに生きている。ある日、一人の男が寺を訪ね来て、それが花月の父親であると判明するが、寺男の藤内、寺に来て一年足らずの稚児の百合若が関わってくることで、父親の性根が浮き彫りにされるのだ。それを知った花月の選択は逞しくも遣る瀬なさがあり、胸がぎゅうと引き絞られる。
 古来、神への捧げ物に芸能は不可欠の存在で、勿論、能もその内に入る。能は聖なるものなのだ。
 だが、その聖なるものを下敷きにしているからこそ、俗とも言える人間の内面を抉り出す筆者の手がてらてらと光って見える。
 いや、そもそもの話、能は高尚なもの、聖なるものとして、日常からかけ離してしまって良いものか。
 能は中国大陸から渡来した散楽に寸劇の要素が加えられ、歌舞的な芸能とも結びつき、室町時代、今から六百年ほど前には、今の能・狂言に近い原型が成立したと言われている。名だたる大名諸侯や公家からの庇護を受けたが、中でも豊臣秀吉の耽溺ぶりには目を見張る。
 誰もが知る朝鮮攻めでは、戦場に能舞台を仮設し連日能を楽しんだ。それどころか自分で舞台に立ちもするし、自分の手柄話を能に仕立てあげ「ほうこう能」なんていう新作能も作ってしまう。一番好んだのは「源氏供養」で、紫式部が『源氏物語』の供養をしなかったために成仏できないと僧に弔いを求める。ちなみに本書の最後の一編「照日の鏡」も、この源氏物語に関連する能「葵上」が下敷きとなっている。
 これだけ能に溺れた秀吉だが、その期間は死ぬまでのたった六年間だ。そのきっかけは飛び切りの信頼を寄せていた千利休に腹切りを命じたことだという。勿論、能への耽溺には政治的な意図も絡んでいたのであろうが、個人的に秀吉という人間のくねった心の動きを感じてならない。
 そう、どれだけ聖なるものであっても、その周りには人間がいるのである。
 能を伝えてきたのも、能を舞ってきたのも人間なのである。
『オール讀物』二〇二〇年十二月号に掲載された座談会の中で、著者はこのように語っている。
「人間の一生って喜怒哀楽の色んな事が起きて、死んでいく。その積み重ねが歴史だと思うと、どこを切り取っても面白い。信長や秀吉だけでなく、無名の人にもドラマがあるし、私はそれを掘り起こしたいんです」
 著者はこれまでの作品で人間を描いてきた。人間への慈悲や愛情が深いからこそ人のはらの中に手を入れて心のひだの間までほじくってくる。勘弁してくれと思いながらも、ページを捲る手を止められないのは、その美しい、能のうたいの如き筆致のせいだ。
 作家になる以前は歴史研究に携わっていた著者の作品は、史実に基づいた緻密な歴史観が反映されていることが特徴でもあるが、本書は淡交社の『なごみ』で連載された短編でページが決められていたため、そういう面が極力削ぎ落とされている。だからこそ人間の心の動きが全面に感じられる本書が私は大好きなのである。
『稚児桜』の解説文まで読み切ったあなたは、また書店で澤田瞳子の書棚の前に立っている。その隣でうきうきと澤田瞳子の新刊を抱えている人間がいれば、それは私である可能性が高いので、どうか話しかけていただきたい。「私、本物の澤田先生にお会いしたことがあるんですよ。上品で博識なのに全く気取っていらっしゃらなくって、サインも沢山貰っちゃって」とマウントを取ってしまうかもしれませんが、澤田瞳子ファンどうし是非とも心ゆくまで語り明かしましょう。

作品紹介・あらすじ



稚児桜 能楽ものがたり
著者 澤田瞳子
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2023年03月22日

直木賞作家が描く、珠玉の短編集。
清水寺の稚児としてたくましく生きる花月。ある日、自分を売り飛ばした父親が突然面会に現れて……(表題作「稚児桜」より)能楽から生まれた珠玉の8篇を収録。直木賞作家が贈る切なく美しい物語。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322207000251/
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