読む者を異世界へと誘う禁断の怪奇・暗黒小説集。
『人間レコード 夢野久作怪奇暗黒傑作選』夢野久作
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
『人間レコード 夢野久作怪奇暗黒傑作選』著者:夢野久作
『人間レコード 夢野久作怪奇暗黒傑作選』文庫巻末解説
解説
夢野久作には「猟奇歌」と総称される、一連の口語短歌がある。猟奇的・探偵小説的なモチーフが頻出する久作文学の原風景ともいうべき興味深い作品群だが、その中に次のような一首がある。
何故に
草の芽生えは光りを慕ひ
心の芽生えは闇を恋ふのか
自然界に生きるものは光を慕うことが運命づけられている。しかしなぜ人の心だけは闇を求めてしまうのか。この歌にはそうした久作自身の切実な問いかけが、鳴り渡っているようにも思う。
考えてみると久作の文学そのものが「闇を恋ふ」営為であった。文明社会によって巧妙に隠蔽された、人間や社会の暗黒面。言葉にするならそれは狂気や暴力、残酷、不条理、エロティシズムということになるだろう。久作はそうした闇に冷徹な目を向け、並外れた知力と構成力、憑かれたような文体によって、それを表現し続けた
本書『人間レコード 夢野久作怪奇暗黒傑作選』は、そんな久作文学に通底する〝暗黒への志向〟をテーマに編まれた短編選集である。これまで角川文庫より刊行された各作品集との重複を極力避けたうえで、近代日本のダークサイドを凝視するかのような五編をセレクトした。一般的な知名度は高くないものの、いずれもこの作家ならではの魔力が横溢した逸品であり、『ドグラ・マグラ』や「少女地獄」などの代表作で久作文学に開眼した若い読者にも、新鮮な驚きをもって迎えられることと思う。
各話解説に移る前に、簡単に作者について振り返っておこう。
夢野久作は明治二十二年(一八八九)福岡県福岡市に生まれた。本名・杉山直樹(後に出家して泰道と改名)。父・杉山茂丸はアジア主義を掲げる政治結社・玄洋社と近しい立場にある政治運動家であり、〝政界の黒幕〟としても知られた傑物である。幼少期から祖父・三郎平より四書の素読、謡曲の手ほどきを受け、九歳で喜多流能楽師・梅津
大正八年(一九一九)に九州日報社に入社、新聞記者として記事を執筆するかたわら、紙上に多くの童話を発表。大正十五年(一九二六)、雑誌「新青年」の創作探偵小説募集に「あやかしの鼓」が二等入選し、中央文壇デビューを飾った。「夢野久作」の筆名を用いたのはこれが初である。
以降、探偵作家として旺盛な執筆活動を展開。「瓶詰地獄」「押絵の奇蹟」などは江戸川乱歩ら同時代の書き手にも激賞された。昭和十年(一九三五)には構想十年、執筆十年と言われる大作『ドグラ・マグラ』を発表。翌十一年(一九三六)、脳溢血により急逝するが、その作品は没後八十年以上経過した今日も読み継がれ、新たな世代に影響を与え続けている。
本書収録の五編はいずれも『ドグラ・マグラ』刊行前後の晩年に書かれた作品で、日中戦争の足音が近づく不安な時代を背景に、ますます人間と社会の暗黒面を深く凝視した、残酷・恐怖・ナンセンスの物語が展開している。
「笑う啞女」(『文藝』昭和十年一月号)
若き医学士・甘川澄夫と女学校を首席で卒業した才媛・初枝の婚礼の宴が、賑やかに催された。集まった村人たちが祝福する中、異様な風体の「啞女」が現れる。妊娠しているらしい娘は澄夫の姿を見つけると、腹部を指し示してエベエベと奇声を発する。一年近く姿を消していた娘が、祝宴の日に戻ってきたのはなぜなのか。
前近代的な人間関係が色濃く残る山村を舞台に、自らの犯した罪に復讐されて破滅するインテリの姿を描いた暗黒悲惨小説。生々しくも猥雑なムラ社会の描写には、「いなか、の、じけん」「空を飛ぶパラソル」同様に、新聞記者時代の取材が生かされていると推測される。言葉を持たない娘の発する「ケケケケ……エベエベエベ……キキキキ……」というすさまじい笑い声が、近代社会に亀裂を生じさせるという展開は恐ろしくも痛快である。呪われた鼓の音色を扱った商業デビュー作「あやかしの鼓」からも明らかなように、久作は耳のいい作家だった。
「人間レコード」(『現代』昭和十一年一月号)
下関に到着した連絡船から降り立った、一人のみすぼらしい西洋人。その行動を見張る朝鮮紳士に、仲間の男が言う。彼こそは
人間の脳にデータを書き込み、暗号通信に用いるという悪夢的なアイデアでSFを先取りした作品。共産主義の冷酷さを暴き出すようなストーリー展開には、日中戦争から太平洋戦争へと突き進んでいく時代の空気が色濃く漂っているが、表面的な対立構造にこだわると足をすくわれる。
ここで久作が描こうとしたのは、国家間のイデオロギー対立に巻き込まれ、記憶と生命を失うことになった人間の悲劇だろう。個人にとってかけがえのないものを、権力は容赦なく利用し、捨てさせてしまう。久作はそうした恐怖を敏感に感じ取っていた作家であり、代表作『ドグラ・マグラ』もそんな悪夢の結晶に他ならなかった。してみると『ドグラ・マグラ』とアイデア的に類似のある「人間レコード」も、単なる反共小説と片付けるわけにはいかないのではないか。なお久作には資本主義社会の悪夢を暴いた「人間腸詰」があることも忘れずに指摘しておこう。
「衝突心理」(『モダン日本』昭和九年五月号)
川崎で起こったトラック同士の衝突事故。事故の原因はヘッドライトの眩しさに、一方の運転手がハンドル操作を誤ったためというのだが、生き残ったもう一方の運転手や助手の証言から意外な事実が判明する。
妻と財産を奪われたトラック運転手の執念の復讐劇と見せかけて、ラストにはナンセンスな味わいの結末が待ち受けている。久作文学は宿命的なロマンティシズムに傾く一方で、それを丸ごと笑い飛ばすようなたくましさも同時に備えていた。幕切れのとぼけた台詞には、久作が愛読したフランス作家モーリス・ルヴェルを彷彿させるような残酷味が漂う。
「巡査辞職」(『新青年』昭和十年十一月~十二月号)
多くの村人に恨まれている因業な大地主・深良屋敷の老夫婦が、何者かに殺された。通報を受けて現場に駆けつけた草川巡査の捜査線上に浮かんだのは、村の模範青年で夫婦の婿養子である一知。しかし決定的証拠が見つからない。事件は迷宮入りするかに思われた。
文明社会のダークサイドを目の当たりにしたインテリ巡査の葛藤を描いた本編は、探偵小説とは
「あらゆる傲慢な、功利道徳、科学文化の外観を搔き破って、そのドン底に恐れ藻 搔 いている昆虫のような人間性──在るか無いかわからない良心を絶大の恐怖に暴露して行く。その痛快味、深刻味、悽惨味を心ゆくまで玩味させる読物」(「探偵小説の真使命」)
であるという、久作の探偵小説観をよく反映している。
欲に凝り固まった深良夫婦、神々しいほどの美しさを備えた娘マユミ、ラジオ趣味に熱中する一知青年などが織りなすドロドロした人間関係と、それとは対照的に澄みきった光を放つ星空の描写が忘れがたい。ミステリとしては単純素朴な作品だが、それを補ってあまりある特色を備えている隠れた逸品。
「超人鬚野博士」(『講談雑誌』昭和十年六月~十一月号)
感化院を脱走し、見世物芸人の助手となった鬚野少年は、日本一の法医学者・鬼目博士の勧めに従い、研究用の犬や猫をさらって大学や医学校に売りつける「博士製造業」で身を立てるようになる。ある日、美しい令嬢の依頼を受け、自分がさらった犬を探す羽目になった鬚野は、見栄と欲望が錯綜するドタバタ劇に巻き込まれていく。
文明社会の裏表に通じたアウトローの怪紳士が、取り澄ました上流階級の秩序をかき乱すさまを、口承文芸を思わせる饒舌な語りで描いた快作。久作には初期の童話『白髪小僧』から未完の長編『犬神博士』へといたる〝無垢なるもの〟の冒険を描いたピカレスクロマンの系譜があるが、本作もその流れを汲むものといえよう。
鬚野博士のキャラクターはしばしば『犬神博士』の主人公チイの大人版と見なされるが、一方で異色の人物伝『近世快人伝』において久作がリスペクトを込めて描いたような、在野の貧しき偉人たちの姿が反映されているようにも思う。いずれにせよ久作の描く怪物的人物は、例によって魅力的だ。
なお本書は、昭和五十五年(一九八〇)に角川文庫より刊行された『骸骨の黒穂』の収録作をベースに編まれた作品集である。具体的には『骸骨の黒穂』所収の七編から「骸骨の黒穂」「山羊鬚編集長」「芝居狂冒険」「オンチ」を外し、代わりに『怪奇暗黒』のサブタイトルにふさわしい「衝突心理」「超人鬚野博士」の二編を収録したことをお断りしておく。
作品紹介・あらすじ
人間レコード 夢野久作怪奇暗黒傑作選
著者 夢野 久作
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2023年02月24日
全身の細胞がうめき声をあげる。怪奇・幻想世界への禁断の誘い。
ハハハ。イヨイヨ人間レコードを使いおったわい――。昭和×年、下関に寄港した連絡船から、老人が降り立った。骨と皮ばかりに痩せ衰えた老人が口を開くと、語られたのは耳を疑いたくなるような言葉だった。老人には諜報活動を成功させようとする強国によって、前代未聞の人体実験が施されていたのだ。表題作「人間レコード」ほか、人間心理を根底から揺るがす白眉5作を厳選。読む者を異世界へと誘う禁断の怪奇・暗黒小説集。
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