友情も恋愛も勉強も将来もすべて。誰にでもある、特別な高校2年生の1年間
畑野智美『水槽の中』
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
畑野智美『水槽の中』
畑野智美『水槽の中』文庫巻末解説
解説
カツセマサヒコ(小説家)
もしも走馬灯を見る日が来たら、あの瞬間は確実に思い出されるだろうな。何気なかったけれど、あの空気を、時間を、感覚を、私はきっと忘れないだろうし、これからも、何度も思い出す気がする。
そう思えるシーンが、人生にいくつかある。高校時代、初めてできた恋人とお
それらは頭の中で、隅まで掃除しきれずに残った特別な記憶だ。なかなか過去にならずに、
本作はまさにそうした、何気ない、でも、確実に存在していた、
事件が起きない青春小説を描くのは、本来、とても難しい。たとえばわかりやすい悪者がいたり、絶望的なまでの窮地を描ければ、それだけで物語に山場を作りやすくなる。しかし、作者は本作において、そうしたわかりやすい展開よりも、何気ない日常、平熱の日々を描くことに徹しており、そうすることで、彼女ら・彼らの心の機微をダイナミックに描くことに成功している(たとえば、花火大会のキスシーン以降は、遥とアルトの心情の変化を知りたくて、夢中でページをめくっていたはずだ)。
何より、我々が経験したはずの多くの青春は、「事件が起きないこと」こそ、最大のリアリティとして受け止められていることを、忘れてはならない。桜に囲まれた坂道も、学校をサボって入った梅雨の時期の水族館も、海の家のかき氷も、文化祭の準備の光景も、修学旅行の小さな部屋も、花火大会の最低のキスも、フィルムカメラで撮影したように淡いまま、でも、確かに鮮明に
「懐かしいと寂しいは、似てるからな」(本文より)
序盤のアルトの発言は、この物語全体が
遥は学校をサボるきっかけとなった長い夢の中で、校舎の屋上という「現実・現在」から、遊園地の観覧車という「理想・夢」を見つめる。直後、悲しい顔をしたピエロが観覧車から放り出され、自分のところに落ちてくる。
遠くで見ていたら楽しそうな場所なのに、近くに降ってくると、悲しく、怖くなる。それは「将来」そのもののようにも感じられる。
高校時代の三年間というのは、生まれて初めて、未来や将来に対して恐怖を覚える時期ではないだろうか。幼い頃は
夢を見た後、遥は学校をサボり、通いなれた水族館に足を運ぶ。
彼女は祖母から素潜りを教わっていたこともあり、海の広さ、自由な空間が、水族館のそれよりも快適で、良いものだと認識している。
自由に泳ぎ回れない小さな水槽の中で、限られた仲間としか会えずに、生涯を終えていく。(本文より)
水族館の魚たちを見て、遥はこのような感想を抱き、それが本作のタイトルにも起用されている。わざわざ言うまでもなく、水族館の水槽は、学校生活、とくに教室で過ごす日常へのメタファーである。
高校の教室という限られた空間で、たまたまクラスメイトとなった人たちと交友関係を深め、卒業までそこにいる。水槽に当てはめれば、海のように広い世界にいられないことを悲観的にも
水槽(つまり遥たちのいる学校)が置かれた場所にも注目したい。
クラスの端っこで男女四人が仲良くなることも、その舞台が海沿いであることも、挑戦的な要素ではなく、あくまでも王道のド真ん中だ。それでも飽きが来ずに最後まで読み切らせるのは、作者から登場人物に注がれた誠実な
自分自身でもコントロールが効かないほど大きな感情や、素直になれない想いや、迫り来る将来への漠然とした不安。そうしたものから逃避したり、時に向き合ったりして、少しずつ成長していく彼女ら・彼らの姿に、当時の自分を重ねて、また懐かしくなったり、寂しくなったりできる。
こうした作品が世に存在するからこそ、私たちは「青春時代」というなんとも捉えにくいものを、心から抱きしめることができるのだ。
作品紹介・あらすじ
畑野智美『水槽の中』
水槽の中
著者 畑野 智美
定価: 792円(本体720円+税)
発売日:2022年03月23日
友情も恋愛も勉強も将来もすべて。誰にでもある、特別な高校2年生の1年間
桜並木に憧れて入学した海の近くの高校で、遥は二年生の春を迎えた。親友のマーリンと過ごす毎日は楽しくて平和で、恋にも満たない気持ちで憧れの先輩を眺めている。ある雨の日、水族館で同じクラスの地味め男子アルトと遭遇するが……。始業式、学食、学園祭、花火、修学旅行、球技大会。放課後に話した、クラスメイトとの他愛ない会話。誰もが大切にずっとしまっておきたい、きらめく一年間の物語。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322106000376/
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