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レビュー

「懐かしいね」と振り返る、眩い光の日々の連続――畑野智美『水槽の中』文庫巻末解説【解説:カツセマサヒコ】

友情も恋愛も勉強も将来もすべて。誰にでもある、特別な高校2年生の1年間
畑野智美『水槽の中』

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

畑野智美『水槽の中



畑野智美『水槽の中』文庫巻末解説

解説
カツセマサヒコ(小説家)

 もしも走馬灯を見る日が来たら、あの瞬間は確実に思い出されるだろうな。何気なかったけれど、あの空気を、時間を、感覚を、私はきっと忘れないだろうし、これからも、何度も思い出す気がする。
 そう思えるシーンが、人生にいくつかある。高校時代、初めてできた恋人とおだいに行った。三十分近く海を見続けていて、その間、お互いに何もしやべらず、つまり、「ふいんき」を作りたかったのだろうけれど、その後にようやく、ファースト・キスをした。そのときのお台場の、風も波もない、穏やかで、滞留している空気に包まれている感覚。また、地元の小さな公園のベンチで、おさなみとただ「毎日つまんねえなあ」と語り合っていた、土曜の午後の陽射し。もしくは、友人の車でかまくらまで向かっているとき、直射日光を浴びたダッシュボードが火傷やけどするほど熱くて、触らない方がいいと言われたときの、車内の匂い。そういう、どうしようもなくさいな瞬間を、なぜか大人になった今でもハッキリと思い出すことができる。
 それらは頭の中で、隅まで掃除しきれずに残った特別な記憶だ。なかなか過去にならずに、き出しのまま、リアリティを持って今も頭の中にとどまり続けている。私はそれを思い出すたび、懐かしい気持ちとともに、当時にはもう戻れないことへのがゆさとはかなさを感じる。少しだけ胸を痛めて、それも受け入れて、また現実に浮上する。

 本作はまさにそうした、何気ない、でも、確実に存在していた、まばゆい光の日々の連続を描いている。はるか、マーリン、バンちゃん、そして、アルト。同じ高校に通う四人は、スクールカーストのトップに立つわけでもなければ、いじめられているわけでもない。よくいる、「ふつうの子」たちだ。そもそもこの物語は、前提として「クラスは平和である」という、それだけで奇跡のような環境にあることが、序盤で語られている。陰湿ないじめが行われている教室も、おそらくは同じ学校内にだってあるだろう。でも、彼女たちのいるクラスに、そうした事件は起きない。クラスメイトが学内で動画配信をしたことが問題になっても、その一人をおとしめるのではなく、学校側のルールにみんなで立ち向かっていく。その様子は、一種の理想郷を見ているようだった。
 事件が起きない青春小説を描くのは、本来、とても難しい。たとえばわかりやすい悪者がいたり、絶望的なまでの窮地を描ければ、それだけで物語に山場を作りやすくなる。しかし、作者は本作において、そうしたわかりやすい展開よりも、何気ない日常、平熱の日々を描くことに徹しており、そうすることで、彼女ら・彼らの心の機微をダイナミックに描くことに成功している(たとえば、花火大会のキスシーン以降は、遥とアルトの心情の変化を知りたくて、夢中でページをめくっていたはずだ)。
 何より、我々が経験したはずの多くの青春は、「事件が起きないこと」こそ、最大のリアリティとして受け止められていることを、忘れてはならない。桜に囲まれた坂道も、学校をサボって入った梅雨の時期の水族館も、海の家のかき氷も、文化祭の準備の光景も、修学旅行の小さな部屋も、花火大会の最低のキスも、フィルムカメラで撮影したように淡いまま、でも、確かに鮮明につづられていく。そのどれもが、言ってしまえば、ただの日常である。それらを甘く、みずみずしく感じたり、せつなさを覚えたりするのは、我々読者が、いや、登場人物たちもみんな、いつかこの青春に終わりがくることを、知っているからだ。

「懐かしいと寂しいは、似てるからな」(本文より)

 序盤のアルトの発言は、この物語全体がまとう空気そのものを表していたと思う。いつだって「懐かしいね」と青春時代を振り返るときは、その近くに「寂しいね」が隠されている。

 遥は学校をサボるきっかけとなった長い夢の中で、校舎の屋上という「現実・現在」から、遊園地の観覧車という「理想・夢」を見つめる。直後、悲しい顔をしたピエロが観覧車から放り出され、自分のところに落ちてくる。
 遠くで見ていたら楽しそうな場所なのに、近くに降ってくると、悲しく、怖くなる。それは「将来」そのもののようにも感じられる。
 高校時代の三年間というのは、生まれて初めて、未来や将来に対して恐怖を覚える時期ではないだろうか。幼い頃ははるか遠くに輝いて見えていた未来が、高校に上がった途端、進路希望票や文理選択という形で、突如具現化されて目の前に立ちふさがる。あんなに輝いていたはずの未来は、いつの間にか「選ぶ」というより「捨てる」感覚で自ら選択肢を削り、みすぼらしい姿になってしまう。そのプレッシャーに耐えきれず、現実逃避したり、現在の環境から離れることを過度に恐れたりするのが、高校時代というものではないだろうか。

 夢を見た後、遥は学校をサボり、通いなれた水族館に足を運ぶ。
 彼女は祖母から素潜りを教わっていたこともあり、海の広さ、自由な空間が、水族館のそれよりも快適で、良いものだと認識している。

 自由に泳ぎ回れない小さな水槽の中で、限られた仲間としか会えずに、生涯を終えていく。(本文より)

 水族館の魚たちを見て、遥はこのような感想を抱き、それが本作のタイトルにも起用されている。わざわざ言うまでもなく、水族館の水槽は、学校生活、とくに教室で過ごす日常へのメタファーである。
 高校の教室という限られた空間で、たまたまクラスメイトとなった人たちと交友関係を深め、卒業までそこにいる。水槽に当てはめれば、海のように広い世界にいられないことを悲観的にもとらえられるが、教室の中が全てだったあの頃は、そこで一喜一憂することそのものが楽しく、愉快で、たまらなくいとおしかったはずだ。作者はその両面を伝えるために、このタイトルを選んだのではないか。
 水槽(つまり遥たちのいる学校)が置かれた場所にも注目したい。しましようなんエリアをイメージさせる海沿いの街の景色である。青春小説に不可欠な舞台装置とも言える「海」や「桜並木」が背景にあり、できすぎない主人公たちがそこを歩く姿を想像するだけで、読者はたちまち、十代のじれったい日々を思い出す(しかし、海が見える教室で青春時代を送れなかったことは、自分の人生の後悔の一つに挙げられるかもしれない)。
 クラスの端っこで男女四人が仲良くなることも、その舞台が海沿いであることも、挑戦的な要素ではなく、あくまでも王道のド真ん中だ。それでも飽きが来ずに最後まで読み切らせるのは、作者から登場人物に注がれた誠実なまなしと軽妙な筆致に加え、十六~十七歳という青の時代が持つエネルギーに、私たちがき込まれてしまうからだろう。
 自分自身でもコントロールが効かないほど大きな感情や、素直になれない想いや、迫り来る将来への漠然とした不安。そうしたものから逃避したり、時に向き合ったりして、少しずつ成長していく彼女ら・彼らの姿に、当時の自分を重ねて、また懐かしくなったり、寂しくなったりできる。
 こうした作品が世に存在するからこそ、私たちは「青春時代」というなんとも捉えにくいものを、心から抱きしめることができるのだ。

作品紹介・あらすじ
畑野智美『水槽の中』



水槽の中
著者 畑野 智美
定価: 792円(本体720円+税)
発売日:2022年03月23日

友情も恋愛も勉強も将来もすべて。誰にでもある、特別な高校2年生の1年間
桜並木に憧れて入学した海の近くの高校で、遥は二年生の春を迎えた。親友のマーリンと過ごす毎日は楽しくて平和で、恋にも満たない気持ちで憧れの先輩を眺めている。ある雨の日、水族館で同じクラスの地味め男子アルトと遭遇するが……。始業式、学食、学園祭、花火、修学旅行、球技大会。放課後に話した、クラスメイトとの他愛ない会話。誰もが大切にずっとしまっておきたい、きらめく一年間の物語。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322106000376/
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