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レビュー

「死刑だってさ」衝撃の結末が待ち受ける、読者をも惑わす慟哭のミステリ。――『使徒の聖域』森晶麿 文庫巻末解説

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

使徒の聖域
著者 森 晶麿



『使徒の聖域』森晶麿 文庫巻末解説

解説
すぎ まつこい

 森晶麿『使徒の聖域』は違和感の小説である。
 謎の事象に関する観察が違和を作り出す。それが読者の好奇心を刺激する。
 小説を読むという行為は、絵画を観た人が脳内に同じ図像を思い浮かべるのに近い。
 全体の構図やモチーフ、色使いや筆さばきといった要素が作品という一つのまとまった印象を作り上げていく。普通小説を一般的な具象画だとすれば、ミステリーはだまし絵に近い。鑑賞者の印象を操作することで効果を挙げる表現だからだ。謎解きを主眼とする小説では、事件という結果がまず示され、犯人や動機といった原因が最後に判明するという転倒した形式が用いられる。作者は、誤導によって読者を真相からいかに遠ざけるかというまんに躍起となる。ただし、小説の最後まで欺瞞が続くわけではなく、中途で手がかりを示すことによって読者にも真相に到達する機会が与えられるのだ。『使徒の聖域』は、その情報開示のやり方に大きな特徴がある作品である。
 本作を注意しながら読むと、何かが違う、という違和感を処々に見出すことになるはずだ。目の前にいるのはたしかに何度も会ったことがある人のはずなのに、どうしても親しみが感じられない。そういう気持ちを抱いた経験がある方は多いだろう。どこも間違っていないが、どうしてもしっくりこない。読者にそうした落ち着かない感じを与え続けながら、作者は物語を進行させていく。世界が不完全であることを絶えず思い知らされているような気分になる。その感覚が『使徒の聖域』の基調にあるものだ。
 中心にいるのは、〈首絞めヒロ〉というツイッターアカウントの主である。「1 二〇一八年 首絞めヒロ」の章でその名前が初めて出てくる。〈練馬少年少女文芸図書館〉で不登校児童を対象にした出張心理カウンセリングをボランティアで行っている〈私〉が、いまみちという少女と出会うことから事態は動き始める。彼女には自殺願望があり、苦しまずに死ねる方法を知っていると称する首絞めヒロとすでに直接やりとりをしていた。犯罪の匂いをぎつけた〈私〉は首絞めヒロの個人サイトに飛び、『青天井の遊歩者』という「がわらんを露悪的に模倣したような文体」の小説が置かれているのを読む。その題名は、〈私〉が八年前に接触を持った人物・ヒロアキが書いていたものと同じであった。
 ヒロアキこそ首絞めヒロだ、と〈私〉が確信した後、「2 二〇一〇年 白の誘惑」の章が始まる。章題からわかるとおり八年前の話だが、「路上で首を絞められるという経験は初めてだった」というあまりにもいきなりの書き出しなので驚かされる。大学で心理学を学ぶと決めた高校三年生の〈私〉は、患者第ゼロ号としてヒロアキにねらいを定めるのである。ただし、路上で首を絞められる。
 このように、現在と過去の章が交互に置かれる形で物語は進行していく。読者にページを繰らせるのは〈私〉が首絞めヒロの凶行を止められるか、という関心、主人公対サイコキラーという図式である。ただし、過去の章で〈私〉が憧れる人物として挙げられるのがクラリス・スターリングであるあたりがやや不穏だ。クラリス・スターリングはトマス・ハリスが一九八八年に発表したサイコスリラー『羊たちの沈黙』(新潮文庫)で初登場した作中人物で、FBI捜査官という設定だが、天才的なサイコキラーのハンニバル・レクターに見込まれたために数奇な運命を辿たどることになる。映画化作品でその役を演じたジョディ・フォスターに魅了されて、というのはいかにも高校生らしい思い込みなのだが、小説や映画に影響されて〈私〉が実在の人物であるヒロアキの観察を始める、というのは奇矯な振る舞いに思える。物語の虚構に〈私〉の現実は浸食されているのだ。
 過去の章で〈私〉は、シチューのなべが混入され多数の犠牲者が出るという猟奇事件に関心を抱く。東日本大震災の起きた二〇一一年の出来事と書かれているが、これが一九九八年の和歌山毒物カレー事件をなぞったものであることは明らかだ。和歌山の事件では主犯として逮捕された女性をサイコパスとしてけんでんする報道が相次いだ。人間の心を持っていない怪物が罪のない人々を殺した、という物語である。〈私〉はこのことに違和感を覚えるのである。架空の存在であるクラリス・スターリングに自らを重ね合わせるというヒロイズムと、メディアによって創造されたサイコキラー像。二つの物語に対する〈私〉の態度は異なり、一方には魅了されるが、もう一方には疑念を抱くのである。物語と現実の間で絶えず彼女は揺れ続けている。
〈私〉を否定する存在は、彼女の観察対象であるはずのヒロアキだ。彼は「人間に心があると規定して、その中身を分析している。でも心なんて初めからなかったら、見当違いなことをやっているのかも知れないよね?」と言い放つ。〈私〉が見ようとしているのは現実ではなく、心という物語ではないかということである。
『使徒の聖域』は、物語によって現実が上書きされるという局面が複数の位相で描かれる小説だ。和歌山毒物カレー事件を思わせる話題についての言及があるのは、〈私〉が見ているものもまた何かの物語かもしれない、という点を示唆する手がかりだろう。では、読者の眼前で展開する出来事のうち、いったい何が現実で、何が物語なのだろうか。本作のミステリーとしての謎は、その問いかけから現れてくる。ちょっとした違和感、もどかしさを無視できないのはそのためで、絶えず注意しながらページをめくっていかなければならない。しかし、この緊張感がたまらない読み味をもたらしてくれるはずだ。
 孤独、心細さに関する作品でもある。人生に絶望しているのは自ら死を選ぼうとする今道奈央だけではない。〈私〉は三度首を絞められた経験があると語るが、そのうちの一回がヒロアキ、残りのうち一回は実の父親だ。明確な理由もなく、おそらくはただ相手を傷つけたいという純粋な悪意によって彼女は首を絞められたのである。そうした不可解な暴力が満ちた世の中が残酷なものであり、時にたまらなく生きづらいということが小説の前提条件になっている。だからこそ、ここではないどこかへの憧れ、現実を塗り替えることが可能な物語を希求する思いがつづられるのだ。しかし、その物語もまた色ではないのだとしたら。悪意ある死の物語を提供してまわる〈首絞めヒロ〉はそのことを意識させる存在である。
 現実と物語のどちらも決して理想郷ではありえない。物語を選ぶことが最良であるとは限らない。だが世の中には、物語を選ばなければ目の前にある現実を耐え忍ぶことも難しいという人が一定数存在する。逃げ場ではないとわかっていても、今いるその場に足を留めることはできないのだ。その切実さ、追い詰められた者たちの心情を表現するために『使徒の聖域』は書かれた作品である。元版の単行本は二〇一九年三月にKADOKAWAから刊行された。今回の文庫化にあたり改められたが、元の題名は『毒よりもなお』であった。毒よりもなおこくであるものをそれでも求めてしまう心に森晶麿は寄り添おうとしたのだ。
 作者のプロフィールについてはカバーなどにも記されているはずなので繰り返さない。森は社会のありように無関心ではいられない作家で、「何を」という題材だけではなく、「どのように」それを表現するかということを常に考え続けている。『使徒の聖域』は現実と物語の関係性を描いた最も森らしい作品である。現実からのしようを望みながらも翼は与えられず、地面を踏みしめた自分の足をのろいながらただ生きるしかない。そうした思いを抱くすべての人々に捧げられた森の、静かな、とても静かな祈り。

作品紹介



使徒の聖域
著者 森 晶麿
定価: 792円(本体720円+税)

「死刑だってさ」衝撃の結末が待ち受ける、読者をも惑わす慟哭のミステリ。
カウンセラーの千尋は、自殺願望のある女子高生の奈央から自殺サイトの存在を知らされる。
犯罪の匂いを感じた千尋は、そのサイトの管理人が、8年前に故郷の山口県で知り合った「ヒロアキ」ではないかと疑いを抱き、独自に調査を始める。
ヒロアキの恐ろしくも哀しい過去が明らかになるにつれ、本人だと確信していくが――
連続殺人犯となった彼の手から、奈央の命を救うことができるのか!? 
最後まで目が離せない、驚愕のミステリ。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322104000283/
amazonページはこちら


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