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レビュー

【解説】人間の痛みを描く筆を持って生まれた小説家だ――『ひきなみ』千早茜【文庫巻末解説:桜木紫乃】

千早茜『ひきなみ』(角川文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!



千早茜『ひきなみ』文庫巻末解説

解説
さくら (作家)

 船が通ったあとに残る水の道。ひきなみは船尾から均等に左右に分かれ、船の速度が速いほど長くその姿を残す。
 まるで人の記憶のようだ、とカバーのタイトルを目でなぞった。
 はやあかねは人間の痛みを描く筆を持って生まれた小説家だ。記憶という厄介なものと互角に渡り合う筆に、ゆるみも躊躇ためらいもない。ゆえにその筆はとても切れ味が鋭い。物語を斬る筆で、小説家は常に自身を切り刻んで生きている。

 本作は二部構成となっており、第一部は「海」。
 物語は、親の都合でしばらく祖父母のいるないかいのちいさな島へ預けられることになったようと、祖父と暮らすの出会いから始まる。
 ともに小学校六年生。東京の気配をまとった葉は、島では異邦人だ。異端の人である真以と、互いの居場所の頼りなさを持ち寄り近づいてゆく。
 気持ちが追いつかないくらいの速度で成長してゆく十二歳の少女たちが、自分たちの後ろに残る波の白さと美しさに戸惑う姿は、繊細とひとくくりに出来ない痛みに包まれている。
 葉の母親は、娘の世話を実家の両親に頼る。不本意な転校を強いられても従うしかないのは、葉がまだ大人たちにとって「子ども」だからだ。
 本人の意識、思考、体、見てくれがすべてバラバラな十二歳である。何もかもが追いつかないし、バランスの悪さを伝えるすべもない。
 島は、地方と呼ばれるどの土地にも共通する閉鎖的な空気を持っていた。世の中に出たての、存在がまだ珍しい携帯電話を持たされた葉は、島に着いた途端に好奇の的。人と人、男と女の境界線を感じ取る感性は、日々を楽しくつつがなく送るには邪魔だろう。
 月に一度の寄合に連れて行かれた葉は、同じ年頃の少年少女たちの輪にめない。早速携帯電話を取られるという、悪ふざけにしては過ぎる洗礼に遭うも、異端児の真以が腕ずくで取り返してくれた。
 葉は、夫の世話にかかりきりで娘を実家に預ける母にも、子どもにも社会があることに見て見ぬふりを出来る祖父母にも失望している。
 同時に、女という性別を担保に生きる「いなげ」な家系に生まれた真以は、自分の出自に失望と絶望を抱えている。
 少女と呼ばれる短い時間は、猛スピードで過ぎてゆく。水しぶきを上げて高速で進んでいるがゆえの、にじの美しさ。本人たちが持つ停滞感や焦燥は、速さが見せる虹だ。生まれては消えてゆくひきなみをゆっくり眺めている余裕もない。
 島に潜伏する脱獄犯に近づいてゆく少女ふたり。好奇心に名を借りた「不安」が、成長にうずいている。
 友に会うために脱獄までした男を利用して、島を出て行った真以。
 少女の行動は、虹のように鮮やかだ。それゆえ、自分が作った美しい虹を見ることもなかった。心頼みにしていた友が何の前触れもなく目の前から姿を消す。それぞれに刻まれたぎざぎざの傷は、うまく縫い合わせることもかなわない。

 第二部は「おか」。
 二十年近くの時を経て、葉は大手飲料メーカーの販売促進部で女性総合職では部署にひとり、という環境で働いていた。
 一部の「海」では高速で時間を泳いでいた少女も、陸に上げられ息苦しい日々だ。葉は感情にふたをして仕事に懸命になりながら、女性総合職というおりの中にいる。
 葉にしつような嫌がらせをしてくるのは、上司である男性部長。自身の立場に不満のある上司のはけ口は、押しの弱い、あるいは何にでも追随する保守にけた部下には向けられない。総合職の女につよい不満を持つ男が繰り出す嫌がらせは、読んでいるこちら側も呼吸が浅くなる。
 大人の女へ舞台を移しながら、千早茜の筆はひきなみの白さから目をらさない。血の濃さ(実はそんなものを筆者はこれっぽっちも信じていないのだが)に失望し、新しい人間関係にも広がりを持てない葉の孤独は深まるばかり。そんな葉の心のり所は観劇。気になる演者のなかに、いつしか真以の面影を探している。
 仕事の資料である写真にちいさく写り込んだ真以を見つけたときの葉の気持ちはいかばかりか。会社のトイレにけ込み、便座の蓋の上にへたり込んで涙をこぼす。そして真以が自分にとっての「虹」であることに気づく。
 真以は長崎にある焼の工房で働いていた。
「あなたは強くて、きれいで、私の憧れだった。だから、捜さなかったのに」。
 そう思いつつ「見つけてしまったらもう目を逸らせない」。
 捜さないことが「友情」への礼儀だった。しかし同時に、止むことなく欲していたことにも気づいてしまう。
 意を決して連絡を取るも、真以はもう工房にはいなかった。彼女は二十年近く経っていてもまだ「脱獄犯に誘拐された少女」のその後を探るやからから身を隠して生きている。
 食い下がり頼み込み、やっと居所を突き止めた真以と、東京での静かな再会──。
 少女たちはいくつもの経験を経て自身のかたちである「女」を受けいれ、ほんの少し「人」としてつよくなっていた。

 ラスト近くになると、読者であるこちらの胸奥にもくっきりとしたひきなみが浮かんだ。
 半世紀以上も生きていれば、なぎの水面だけ見る腕も上がる。生きる術を得るということかもしれない。自分のかたち、あるいは輪郭が太くなり、つまらぬことで己の心を揺らしているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。自分についての情報と日々つき合うよりは、情報をいただかないほうへと船のさきが定まってゆく。知る人知らない人が自分をどう見ようとよくなれば、これ以上の生きる武器もないのだ。
 記憶の水面に残る波のあとを思った。人と出会うたびしぶきに虹を見ながら、やがて傷へと変わってゆく紋様だ。
 消えない記憶があることも、生きることも、実に厄介。
 読後、厄介な自分とつき合う術を得た葉と真以が一対の絵になって、こちらの内側にひきなみを描いた。
 書き手には、自身の筆が望む物語がある。筆と格闘しながらいったいどれだけの痛みとつき合うのかを考えれば、千早茜は主人公の少女たち同様、傷だらけなのだろう。

 瀬戸内をゆく船が作る虹の描写が全編を通し大切なシーンで繰り返される。
 印象深い虹は、筆者にも記憶がある。こうしものせきつなぐ渡し船だった。隣にはひとつ違いの友がいた。船の舳先にあがる水しぶきに美しい虹を見たとき、「ああこの瞬間を書かなくては」と思った。彼女が送ってきた六十年を思いながら、虹に過去を溶かしてみたくなったのだ。
 千早茜が瀬戸内に見た虹を想像する。
 物語を作りけんいんするだけの、力強い虹だったろう。
 どれだけ内面をさらそうと、揺らぐことのない美しい虹だ。

作品紹介



書 名: ひきなみ
著 者: 千早茜
発売日:2024年07月25日

脱獄犯の男と消えた彼女。女として現代を生き抜くすべての女性たちへ。
思春期の出来事を機に真以に心を寄せる葉だったが、真以は脱獄犯の男と共に逃亡、姿を消してしまう。20年後、ネット上で真以を見つけた葉はたまらず会いに行くが――。現代を生きるすべての女性に贈る物語

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322311000521/
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