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【解説】何も考えなくても、何も怖がらなくても――『ミラーワールド』椰月美智子【文庫巻末解説:武田砂鉄】

椰月美智子『ミラーワールド』(角川文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!



椰月美智子『ミラーワールド』文庫巻末解説

解説 何も考えなくても、何も怖がらなくても
たけ てつ(ライター)

 今日も快適に過ごせた。それなりの満員電車に乗って出かけたけれど、背が高いのでゆっくり空気が吸える。打ち合わせしたのは会うのが初めての人たちで、あちらは3人も横並びでビビったが、値踏みされることなく終えられた。すっかり夜遅くなってしまった。最寄り駅から数分も歩くと真っ暗になるのだが、イヤホンでラジオを聴きながら家まで帰る。ポストに郵便物がまっているはず。住んでいるマンションの郵便ポストは半個室のような形状をしており、人がいる時に入ると、その人が出られなくなってしまうので、目視してから入る。かがんでポストを開けている女性が見えたので、少し離れたところで待つ。女性は薄明かりの下に立つ中年男性に気づいたが、目を合わさず、素早く立ち去っていく。会釈くらいしてくれてもいいのではないかと思いつつ、少しもコミュニケーションを発生させたくない気持ちもわかる。隣近所に誰が住んでいるかわからない社会になってしまいました、なんていう嘆きはもっともだが、嘆きを解消するためにわざわざ動くのって、簡単ではない。こうして今日も快適な一日が終わる。
 ある男子中学校でジェンダーについての講演をしてほしいとの依頼を受け、1時間くらい話した後、質疑応答の時間を設けると「いつもの質問」が出た。この手のテーマで話す機会の多い人から「いつも出る質問があるんだよね」と聞かされていた質問だ。それは、「どうして女性専用車両があって、男性専用車両はないんですか。痴漢えんざいも問題ですよね」というもの。教室の後ろのほうに座り、壇上からも「自分、ちゃんと聞くつもりないんで」というスタンスが確認できる態度を隠さなかった彼からの質問に答える。
「もちろん、痴漢冤罪は問題ですが、痴漢が無くなれば痴漢冤罪も無くなります。痴漢被害を申し出た人はわずか1割とも言われています。つまり、数値には表れない痴漢行為が繰り返されていると考えられます。痴漢被害にあう男性もいますが、圧倒的に女性が被害にあっている以上、安全確保のため、女性専用車両は必要です。ですので、男性専用車両も、ではなく、なぜ女性専用車両が必要とされたのか、どうすれば痴漢被害を無くすことができるかを考えたらいいのではないでしょうか」
 こう答えると、煮え切らない顔を保っていたものの、さらに付け加えることはせず、引き下がった。男性が優位な社会、快適に暮らせる社会、リスクが少ない社会で暮らしている。男性がその自覚を持った後で、不平等を是正しようとするのか、こっそり温存するためにも「男もつらい」方面にかじを切るのか、どちらを選ぶのか、問われ続けている。
「男は家庭をいちばんに考えろと母は言う。由布子さんの言うことをよく聞いて、由布子さんが気持ちよく外で働けるためにサポートしなさい」
「子連れで出席した男性議員に向かって、『赤ん坊がかわいそうだから、議員をやめて家にいろ』『三つ子の魂百までよ』『国会は保育所じゃないわよ』などとヤジが飛んだ」
「ほら、医学部の不正入試の件。女男差別だっていうけど、女と男は違う生き物なんだから仕方ないんだよ。女のほうが基礎学力が高いんだから、人数が多いのは当たり前なの」
 この『ミラーワールド』では、男女の役割が反転した社会が描かれる。男女をシンプルに反転させるだけで、こつけいだし、切実だし、問題の根深さが見えてくる。立場の弱い男たちは何度も理不尽な目にあう。立場が約束されている女たちは、その理不尽を是正するふりをしながら、でも、これはもう、そういうことになっているんだし、ずっとこの感じできたのだから、あれこれ主張するんじゃなくて、黙ってやることやっててよと強いてくる。
 男はあちこちで見下されている。何をしても褒められない。日々の生活を維持する上でいくつもハードルが設けられているのに、そのハードルをひようひようと飛び越えるのが前提になっている。輝いている男性もいる。書店に行けば、「男流作家コーナー」がある。「作家」と「男流作家」に分かれているのだろうか。紳士科医院の看板には「忙しい男性のために、土日も開院しています」と書かれている。気を遣われている。女性は忙しく働いているけれど、最近は男性だって忙しくしている。育児だって、家事だって、立派な労働であって、少しは認めてあげようよ。女男平等社会がやってくる日は来るのだろうか。女男平等社会とか言うけど、女もしんどいし、最近、なんか男ばかりが優遇されているよね、なんて声があがるのだろうか。
「男の敵は男、その背景にあるのは女社会に他ならない。無意識のうちに女に気に入られようとする行動が、男の敵を作ってしまうのではないだろうか」
 こんな一文に、頭がちょっと混乱する。男の敵が男なのは女が牛耳っている社会だから、ってどういうことだ。気に入られるって具体的にはなんだ。反転した社会の中でのセリフをもう一回反転させて、元に戻してみる。つまり、これを読んでいる私たちの社会に戻してみる。
「女の敵は女、その背景にあるのは男社会に他ならない。無意識のうちに男に気に入られようとする行動が、女の敵を作ってしまうのではないだろうか」
 うわ、よく聞くやつだ。スムーズに意味が頭に入ってくる。この問いに、うなずくにしても頷かないにしても、こういう論理展開自体に慣れている。この解説原稿を書く少し前、ガールズバーを経営していた女性が男性ストーカーに殺されてしまう事件が起きた。男性が自分の車やバイクを売って、女性にお金を渡していた経緯が明らかになると、女性に対するバッシングが始まった。「殺されても文句言えない」などと書かれたSNSの投稿に、1万を超える「いいね!」ボタンが押されていた。女性も悪かったのではないかと軽々しくせんさくする姿勢をばらまくことで、この社会の優位性が温存される。
 女男差別が横行する『ミラーワールド』では、女が男に命令して中高生男子を襲わせる事件が多発していた。
「ワイドショーの報道なんかでさ、男が襲われるのは、女を刺激するようなかつこうをしているから悪いとか、男に隙があったんじゃないかとか、男のほうが誘ったんじゃないかとか言う、頭のおかしいババアたちがいるじゃん? おれ、ああいうのほんとにムカつく。問題をすり替えるんじゃねえ! って声を大にして言いたい」
 今、そこにある優位な状態を保とうとする人は、優位性が崩れそうになるのを発見すると、向かってくる相手を指差しながら雑にけんせいする。そして、「どっちもどっち」を作ろうとする。それさえ作って、議論しているかのような様子を見せるだけで、これまでの優位性が保たれると知っている。
 混乱しながら本書を読み始める。反転した社会に違和感を覚える。やがて、違和感に慣れてくる。ここでは男性の感情がないがしろにされている。社会の仕組みだけではなく、自分はこう感じた、こう思っている、こうしてほしいという感情が軽んじられている。生活をまわすために男性たちは黙らされる。生活って、感情を消さないとまわせないようなのだ。
 小説を閉じると、世界は元に戻る。読み終えた自分が、今日も快適に過ごせそうなのはなぜなのか。あるいは、何も考えなくても、何も怖がらなくても暮らせてしまうのはなぜか、ここから考えないといけない。

作品紹介



書 名: ミラーワールド
著 者: 椰月美智子
発売日:2024年07月25日

男女反転世界から見える景色――当然と思ってきたその常識、合ってますか?
妻が家計を支え、夫が家事育児をこなす“男女反転世界”で、それぞれ思春期の子を育てる3組の夫婦。反転世界だからこそ浮かび上がる既視感と違和感に刮目!『明日の食卓』の著者が放つ、今読むべき渾身作!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322312000899/
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