私が小説家になった時、大沢在昌はすでに小説家だった。十年前のことになるから、大沢は二十五といったところだったのか。私よりも、九つも若い先輩作家だった。
私は、ハードボイルド作家というレッテルを貼られてデビューしたが、実はハードボイルドをよく知らなかった。これははじめて告白することだが、ハメットを一冊読んでいただけなのだ。
そういう私に、ハードボイルドがなにかを教えたのは、大沢ではない。私は私で、自分に貼られたレッテルに合わせるために、ハードボイルド小説と呼ばれるものを、読み漁った。はじめはついていけず、黙っているしかなかったハードボイルドについての会話も、なんとかできるようになった。
それでも大沢と、ハードボイルドについて深く語り合った、という記憶はない。四谷のある酒場で、その店が開店して以来の、猥談の長時間記録を持っているぐらいである。
作家にとって小説は、語るものではなく書くものだ、と私は勝手に思いこんでいた。
私から見て大沢は、小説好きがのめりこみすぎて、自分で小説を書きはじめた、そういうところから出発した作家に見えた。出発はどうであろうと、書き続けていくからには、趣味の延長であるはずはなく、どこかに自分でも気づいていない必然性が潜んでいるに違いないと、私は眼をこらしていた。自らの必然性などについて、分析には無関心な男だったから、友人という立場上、私が見つけていつかは指摘した方がいいのではないかと、余計なお世話を考えていたのだった。
無論、必然性の分析が、小説の質を左右したりはしない。作家にとっては、必要のない行為と言ってもいいのだ。必然性がどうのというのは、私の趣味のようなものである。
それでも、大沢の必然性がなかなか見えてこないことは、私をかすかに苛立たせた。小説全体に、無様さを嫌う、もしくは拒絶するスタイルがあり、それが薄いヴェールとなって、いつも私の視界を遮ってしまうのだ。
「もっと、量を書け」
私はよくそう言った。
「土方の真似はできないよ。労働に合う体質じゃないんだから」
そんな返答も、私にはやはりスタイルのひとつと感じられた。量を書くことで、スタイルが崩れることを期待していた私は、結局いつまでも待たされることになった。量を書くことで、なにかをつきつめようというのは、私自身のスタイルにほかならず、つまるところ体重計で身長を測ろうとしていたようなものだと、忸怩の中でさとったのは、ずっと後年のことになる。
大沢と私の交友は、そんなふうにして続いた。どこか、いつも気持が合う部分があった、と言っていいであろう。それは、歳月とともに、悪友という関係になっていく。
その悪友が、ある時、しばらく郷里の名古屋へ帰ってくる、と言いはじめた。亡くなった父親について、考えてみたいことがあるという様子で、いくらか真剣な口調だった。
どれほどの期間、名古屋に戻っていたかは、よく憶えていない。次に東京で会った大沢は、顔半分に髭を蓄えていた。親父の書斎で、ものを書こうとしたりしてみたのだという。もっと細かいことも、ポツポツと語った。どんなことだったか、明瞭な記憶はないが、作家としての核質がなんであるか、めずらしく垣間見せた瞬間だったという思いは、いまも鮮やかに残っている。
親父の書斎で、親父の遺品に囲まれながらの執筆が、どういう結実をみたかは、知らない。作品として結実したのか、もっと別なかたちでの結実だったのか。
とにかくそのころから、私には大沢の作品が持つなにかが見えてきた。そしてそれは、一作ごとにさらにはっきりとなっていくようにも思えた。
父性の希求。言葉で言うと、そんなものになるかもしれない。私は時々、大沢の作品から、父性を呼ぶ叫びを聞いた。
ハードボイルドは、センチメンタリズムの産物と言ってもいい。そして大沢のセンチメンタリズムの骨組の中に、明らかに父性の希求という柱がある、と私はいま信じている。本人が意識するしないにかかわらず、作品にはそれが見えるのである。つけ加えることではないかもしれないが、意識が作品を書かせることは稀である。むしろ無意識なものの中に、作家はその核質を見せてしまうことが多いのだろう。
大沢は、近作『新宿鮫』で、作家の可能性を拡げたと世上では言われるが、作品としてはその前に『氷の森』があり、さらなる内的な契機としては、数年前の帰郷があるのだ、と私は信じている。
本書であるが、この作品が雑誌掲載になった時点で、将来文庫化される時の解説はこの俺だと、私は自ら志願した。
読む角度はいろいろあり、それは読者の自由だが、先に述べた父性の希求が、はじめに明確に出てきた作品という認識が、私にはあったからである。
もっとも、大沢には別の意識があったようだが、書く時の意識が作品の本質と直結することは、やはり稀なのだと思う。
大沢作品を、どういう鍵で解こうと、最後に出てくるのは、センチメンタリズムの産物としての、ハードボイルドなのだ。そして、私が手にしてみた父性という鍵は、あながち誤ってはいなかったのだと、いまも思っている。『新宿鮫』の主人公と上司の関係にも、それは見えていないだろうか。
こんなこむずかしい解き方をしやがって、と大沢が怒る顔が見えるようである。小説は面白く愉しめればいい、という大沢の持論はわかっている。それでもあえて、私はこんな解説を書いた。大沢の持論とは別の次元で、大沢作品が文学として論じられる機会は、作品のために与えられるべきだろう。
そして拙い文章でも、悪友である私は、それをやる資格を持つひとりなのである。
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