アメリカにとって、またアメリカ人にとって、マーク・トウェインはなくてはならない作家であり、マーク・トウェインなくして、いまのアメリカ文学はなかった。とくに『ハックルベリー・フィンの冒険』の評価は高く、アーネスト・ヘミングウェイはこういっている。
すべての現代アメリカ文学は一冊の本にその源をたどることができる。『ハックルベリー・フィンの冒険』だ。アメリカ文学の最高傑作だ。すべてのアメリカ文学はここから始まる。見るべきものは、この作品の前にはなく、これに匹敵する作品もまだない。
また、同じくアメリカのノーベル文学賞作家、ウィリアム・フォークナーの遺作、『自動車泥棒』も『ハック』を下敷きにしたといわれている。
一八三五年、中部のミズーリ州に生まれたトウェインはミシシッピ川の蒸気船の水先案内人をしたり、金鉱銀鉱探しをしたり、投機に手を出したりした後、ジャーナリストになり、やがてユーモア作家としてデビューする。そして新聞社の特派員としてヨーロッパを回ったときの体験をもとに書いた『無邪気者の外遊記』(六九年)がベストセラーになり、作家としての地位を確かなものにする。その後、『トム・ソーヤーの冒険』(七六年)、『王子と乞食』(八二年)などの子ども向けの作品でも有名になり、愛読者はどんどん増えていった。
そして、アメリカ文学の最高傑作『ハックルベリー・フィンの冒険』(八四年、八五年)を書き上げる。
ところが、そのあと、当時のアメリカ人がアーサー王宮廷にタイムスリップするSFファンタジー『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』(八九年)あたりから作品に暗い影が差すようになり、『不思議な少年 44号』(一九一六年)という悪夢のような小説が遺作となる。
最初、南部のほら話風のユーモアに富んだ作品を書き、胸躍る冒険物語を書いていたトウェインが、なぜペシミスティックな方向に流れていったのか。様々な指摘があるが、その理由はさておき、そういう晩年を象徴する傑作のひとつが、この『人間とは何か』(一九〇六年)だ。これには晩年のトウェインの世界観、人間観、人生観が凝縮されている。
ここでは、青年が常識的な人間を代弁し、老人がトウェインの考えを代弁している。老人はこんな言葉を口にする。
倫理、道徳、名誉、自尊心、自己犠牲といった美徳を信じている青年を相手に、老人は自分の思うところを述べていく。ときにはユーモラスに、ときには辛辣に、ときには皮肉たっぷりに。
とくに第六章「本能と思考」に入ると、老人はさらに舌鋒鋭く、青年の浅薄な言葉を粉砕していく。
こんなやりとりを繰り返しながら、いよいよ「結論」へ。その結論の終わりの部分でこんな言葉が語られる。
人間と国と国民への批判と絶望で、この書は幕を閉じる。
作者の中心にあるのは次のような考えだ。人間(の心)も動物(の心)も機械だ。人間にも動物にも真にオリジナルな物など作れはしない、すべては昔からのコピーの累積だ。人間が自由意志と錯覚しているものは自由選択に過ぎない。人間の行動の根本原理は自己満足である。
こういったことを、トウェインはじつにおもしろい比喩や、わかりやすい事実を使って説いていく。最初の「石のエンジン」と「鋼鉄のエンジン」の比較や、鉄が鉱石の状態から精錬される比喩に戸惑った読者は多いと思う。しかし、それを咀嚼しながら読み進むうちに、ふとトウェインの説に引きこまれていく自分に気がつくのではないだろうか。
さて、この解説の最初のほうでトウェインの影響を受けた作家としてヘミングウェイとフォークナーをあげたが、戦後のアメリカ文学を代表する作家のひとりカート・ヴォネガットはさらに大きな影響を受けている。数多くのユーモラスで、ナンセンスたっぷりの小説や、SFやファンタジーっぽい作品、それからウィットに富んだ鋭いエッセイなど、まさに二十世紀のトウェインといっていい。ヴォネガット自身、それを否定していない。それどころか、堂々と認めている。
拙訳の『国のない男』からそれらしいところを抜き出してみよう。
マーク・トウェインとエイブラハム・リンカンはいまどこにいるのだろう。いまこそ必要なときだというのに。
わが尊敬すべきアインシュタインとトウェインにならって、わたしも人類を見限ることにした。わたしは第二次世界大戦に参加したことがあるので、断っておくが、わたしが無慈悲な戦争マシンに降伏したのはこれが最初ではない。
この小説で、彼(トウェイン)は暗い満足感にひたったにちがいない。わたしも読んで、同じ気持ちを味わった。そう、神ではなく悪魔がこの地球を創造し、「ろくでもない人類」というやつを創造したのだ。もし嘘だと思うなら、朝刊を読めばいい。どの新聞でもいい。いつの新聞でもいい。
ついでにもうひとつ。ヴォネガットは構想段階の本のなかで、主人公に「もし神がいま生きていたら、きっと無神論者になっていたと思う」といわせている。まさにトウェインが口にしそうな言葉だ。
しかし、トウェインといいヴォネガットといい、なぜそこまで人間に絶望しているのに書くのだろう。
小説であれエッセイであれ、また論文であれ、書くという作業は時間と労力と、膨大なエネルギーを必要とする。とことん絶望している作家にとっては、書くという作業は苦痛でしかない。にもかかわらず、ふたりとも死ぬ間際まで書き続けた。
もしかしたらそれは、祈りにも似た、切実な希望の裏返しなのだろうか。それとも、そこまで絶望してもなお書かざるをえない、作家の業のせいなのだろうか。あるいは、書くという麻薬的な魔力がふたりを捕まえて離さなかったのか。
そんなことを考えながら、この本を読み直すと、さらに意味深い発見があると思う。そしてぜひ、『ハックルベリー・フィンの冒険』を(読み直して/読んでみて)ほしい。希望と絶望の狭間で書かれたこの冒険小説の大きさと魅力に驚くはずだ。
最後になったが、簡単に訳者、大久保博氏について書いておきたい。氏はアメリカ文学の翻訳や紹介で有名だが、とくに抜きん出ているのがマーク・トウェインの研究と翻訳だ。そのひとつの例が本邦初訳の『不思議な少年 44号』だろう。このおかげで、それまでひどく改ざんされて『不思議な少年』というタイトルで翻訳されてきたトウェインの遺作が、オリジナルに近い形で読めるようになった。
その他、氏の業績をあげればきりがないが、もうひとつぜひ書いておきたいのは、訳文の的確さと流れのよさだ。
これは翻訳家でないとわからないと思うのだが、氏の翻訳は原文のイメージの流れをなるべくそのまま日本語に移すという難業に成功している。接続詞や関係代名詞の前と後をひっくり返す訳者が依然として多いなか、氏は徹底して、日本語の文法と日本人の感性が許す限り、原文の前後を入れ替えないよう訳してきた。興味のある方はぜひ原文と訳文を読みくらべてみてほしい。
四十年以上前、大学で氏に学んだ多くのことのなかで、なによりこの翻訳の手法は自分にとって大きなものとして残っている。今回、『人間とは何か』の訳文を読んでみて、それを再認識した。
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