今月(二〇一七年三月)も、今井絵美子の文庫本が二冊刊行された。一冊は、二〇一五年八月に角川春樹事務所から刊行された代表作の一つ、『綺良のさくら』(ハルキ文庫)の文庫化で、いま一つは〈便り屋お葉日月抄〉シリーズの第十弾『友よ』(祥伝社文庫)。書下ろしである。
近頃、還暦が近いせいか、やたら涙腺が弱くなっている。『綺良のさくら』は再読だから、といいきかせ、書庫にしまい込んで、それでも『友よ』は、新作だからと――本当は今井節に泣かされたいくせに――ページを繰ると、ラストのラストでもういけない。
批評家はもっと客観的冷静さを持ってなければいけないのに、私の場合、どうしても〈情〉の部分を抑えることができないのだ。
それも今井作品の場合、彼女の四代にわたる愛猫キャシーとの自叙伝『いつもおまえが傍にいた』(二〇一六年七月、祥伝社)を読んでからはなおさらのことだった。
これは、文壇関係者や一部の読者は御存じだったと思うが、彼女はこの一巻の中で自分の波瀾万丈の人生とともに、ステージ4、余命三年と宣告された乳癌との闘病生活を克明に記していたからである。
その中で今井絵美子は、次のようにいっている。
いわく「余命が判っただけでもありがたい」。
いわく「T医師にしてみれば、わたしが薬物治療や手術をしないと宣言しているため、痛みを抑える以外に手の施しようがないのであろう。/が、痛みさえ抑えられれば、小説は書ける」。
さらに「昨日改めて数えてみたところ、二年前に五十冊記念パーティを開いてもらった後、すでに二十九冊刊行しているのである。/百冊刊行までに、後二十一冊……。/今年のリオデジャネイロには間に合わないとしても、この調子でいけば平昌の冬のオリンピックまでには百冊いけそうである」とも記している。
何と誇りに満ちた宣言であろうか。
このくだりを読むにつけ、私は人間とは何と素晴らしいものであるかと思わずにはいられないのだ。
そして『群青のとき』は、今井絵美子の本格的な幕末小説として文学史に残る力作である。この作品は二〇一四年、KADOKAWAから刊行された小説で、これまで脇役的存在でしかなかった幕末前夜の老中・阿部正弘を描破し切った、恐らくはじめての作品である。
阿部正弘は備後(広島)の福山藩主で、二十五歳で老中に登りつめ、一八五三年、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀にきて、開国を要求した際、返事を一年後と申し入れた。彼はペリーの乗る蒸気船に備えられている大砲を見て、日本は到底、軍事力で及ばないことを察知。翌年、ペリーと「日米和親条約」を結んだ。これにより、約二〇〇年に及ぶ鎖国が終わりを告げたことはよく知られるところであろう。
その後、正弘は、安政の改革で海軍の創設、大砲の製造等を行い、後、こうした状況を受けて、幕閣内部では、いわゆる攘夷派と開国派の対立が起こることになる。正弘は開国派の堀田正睦に老中を譲るが、三十九歳の若さで病に倒れ急死してしまう。
地味といえば確かに地味な存在かもしれない。しかしながら、彼なくして幕末の下ごしらえはできなかったといえよう。
では、なぜ、今井絵美子は、そんな阿部正弘と格闘――作品には正にそんな気迫が漲っている――しようと考えたのであろうか。
前述の『いつもおまえが傍にいた』の中にその動機の一端が記されているので、ここでその箇所を引いておこう。
これ(『群青のとき』)は長年温めてきた福山藩主阿部正弘の生涯を描いた作品で、時代小説を書き始めた頃から、福山に生まれ育ったわたしがこれを書かないでどうしようと思っていたのである。
世間には阿部正弘がいかに欧米列強と対等に渡り合おうとしたかあまり知られておらず、小説や映画、ドラマに描かれたとしても、いつも脇役的な存在でしか描かれていなかった。
だが、事実はそうではないのである。
ペリーが来航した際、仮に阿部正弘が筆頭老中でなかったとすれば、日本は欧米と対峙した末、属国になっていたかもしれないし、もしかすると、現在の我が国の形がまた少し違っていたかもしれないのである。
が、いかに言っても小説として書くには、阿部正弘は地味である。
眉目秀麗、怜悧で実直な男というだけでは小説的な面白味に欠け、読者は英雄的な破天荒な人物を好むものである。
そこで私は架空の人物闇丸なる草の者を登場させ、正弘の影武者的な役割を果たさせることにしたのである。
まず、故郷の人を書いた作品、というのは今井絵美子にとって、ある意味、モニュメンタルな小説であった、といえよう。
さて、ここからは『群青のとき』の核心に触れるので、もし解説を先に読んでいる方は、是非とも本文の方に移っていただきたいと思う。
作者の巧みなところは、故郷の人を描くに当たって〈情〉を完全に封じているのである。もし〈情〉が描かれているとすれば、それは文章ではなく、行間においてである。
〈情〉を表に出し過ぎると、読者は鼻白んでしまう――彼女はそれをちゃんと心得ているのである。
そこで重要な存在となってくるのが、作者の創造した架空の人物・闇丸である。
影の主役ともいうべき、この草の者を登場させることで、作者は〈情〉の回路を見事に遮断しているのだ。
もう少し詳しくいえば、正統派時代小説に虚構の人物を登場させるというのも随分と大胆な手法だが、作品はまったく破綻していない。いや、破綻するどころか、こうした手法を取ることによって、正弘をあくまで客観的に描き、正弘に寄せる作者の〈情〉を闇丸に託すという絶妙の構成をつくり出しているのだ。
前述の阿部正弘を紹介した箇所とだぶるが、作者は正弘の最後の二年間を次のように記している。
思えば、ペリー来航をはじめ、将軍家慶の死、日米和親条約に続き、日英和親条約、日露和親条約を締結し、その間にも斉昭の幕政参与辞任を冷静に受け止め、講武場、洋学所、長崎には海軍伝習所を設置し、また家中へと目を移せば、丸山藩邸に藩校誠之館、福山誠之館を設立してきたのである。
阿部正弘こそは、決して欠かすことのできない幕末前夜の歴史のピースの一片であり、あたかも、天が彼が必要なとき、下界へと産み落とし、その仕事を終えるや、瞬く間に天に拉致し去った人物といえはしまいか。
作者はそれを歴史と政治の脈打つダイナミズムの中に描破している。
たとえば、水戸烈公との腹のさぐり合いや、松平慶永、島津斉彬、そして正弘と、家内、外様、幕閣、それぞれ立場の違う三人が天下国家を論じる際の、読んでいて、ぞくりとするような面白さはどうだ。
どちらかというと、女性作家は、何人かを除いて政治を面白く書くことには不向きだと思われがちだ。ところが、市井もののイメージの強い今井絵美子は、いつの間にこのような豪腕を身につけたのだろうか。
私は、この作品が単行本として刊行される際、KADOKAWAのPR誌「本の旅人」で書評をしたが、当時の日本の政治状況を踏まえて「彼ら憂国のもののふたちの姿に触れると、解散・総選挙を決めてしまった平成の政治家どもに、この一巻を読め、とでもいいたくなる」と書いた。だが、今の外交の状況や国家のていたらくを見ると、ますます、その思いは強くなるばかりだ。
それは、作者の目が決して過去だけに向けられてはいないからだ。
作中、ペリー来航に触れて、もし、アメリカの属国になるようでは云々という箇所があるが、日本が太平洋戦争に負けて降伏文書に署名するとき、ミズーリ号の船上にひるがえっていたのは、ペリーが来航した際に船上にひるがえっていた星条旗ではなかったか。
さらにいえば、それ以後、未だ日本がアメリカの属国に等しいのは皮肉なことだ。
作者は、日本を取り巻く〈現在〉に思いをはせ、日本はもう一度、開国しなおさねばならぬ、といっている――そしてその思いは、アメリカではトランプ大統領が吠え、ヨーロッパ各国ではEU離脱が懸念され、日米と大陸との緊張が強まる中、ますます、私たちの〈今日〉を打ってやまない。
私は、今井絵美子が、文字通り生命を削りながら書いたこの一巻を、単なる傑作というだけでなく、尊い書と思わずにはいられない。
それから最後に今井さんに一ついいたいことがあるとすれば、平昌までといわず、東京五輪も見ませんか。どうぞ御自愛しつつ、頑張って下さい。
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